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知ればイケる古代人

(2023.7.4 メルマガアーカイブ)


現在「問いかけのインド哲学」というオンラインでの講座をやっているんですが、これが自分で言うのもなんだがめちゃくちゃ面白い。いろいろあるインド哲学の中から回ごとにテーマを絞って紹介しつつ、その内容から「問い」を立てて考察をしてみよう、という内容になっています。「問いを立てること」自体は他の講座でも織り交ぜてきたエッセンスなんですが、この講座は最初からそこにベクトルを合わせて解説を組んでいます。


「問う」ということに私がいつもこだわっているのは、ひとつの呪縛のようなものです。何年も前の話ですがサンスクリットの先生に


「問いとその答えは同時に生まれる。」


と言われたことに頭ガっーツン、目を開かせてもらった経験があります。「いい問い」ができればその瞬間すでに「いい返答」がこの宇宙空間に同時発生する。では質の悪い問いや的外れの問いを発すると・・・やはり質の悪い返答や、的外れの返答が発生する、という原理。


「問いとその返答」は「時と質」において同時発生なんだ。いい解にたどり着きたかったら最良の問いをひねり出さないといかんのね!!と。これは過去現在未来という時間感覚を超えた真理なんだ、と思いました。


同じところで思考がぐるぐるしてどこにもたどり着かない時というのは、そうなってしまう質の「問い」しかしていないという事で。だから視点や発想を変えるためにも学ぶことが大事で、常に学びを更新し、自在に問いかけるフットワークの良さを訓練して「いい問い」を発することができるようになろう、と思いました。


そういった事があり、どう問いかけるかというのは私にとって非常に大事になったわけです。この呪縛は良い呪縛です。先生がくれた贈り物。




■六派哲学おもしろひ

前置きが長くなりましたが今日話したいことは、先日の講義で「インド正統六学派」またの名を「六派哲学」について講じていて感じたことです。


ちょっとだけ予備知識として。
インド哲学における「六派哲学」とは、紀元前のバラモン教における「ヴェーダ」という聖典の内容に正当性と権威を置いた学派のことを指します。


このメルマガでも何度も書いてきたので短めにしますが、ざくっと言うと・・・
初期においては神話や神々の讃歌が中心だった「ヴェーダ」の内容が、500年くらいの時を経て最後の方になると、哲学的な発想を持つようになります。最終的に『梵(ブラフマン)』と呼ばれる宇宙の最高原理と、人(個我・アートマン)は等しいのだ、宇宙我と個人我は実は同じなんだ、という発想に行き着きました。アートマンすなわちブラフマン。梵我一如ってやつです。


さらには、この真理を完全に理解することができれば「解脱」する、と説きます。解脱というのは「輪廻(死んでは生まれる)」のサイクルから自由になり、再生も再死もしなくなる、ということです。


六派哲学はヴェーダ聖典時代の後に発生したグループで、ヴェーダの「梵と我は同じ」というところを引き継ぎます。その最高真理をどう理論的に説明するか、あるいはどうやってその境地(解脱)に赴くか、ということを研究・実践し、学説を積み上げていった6グループなのです。



■解脱って言われてもね

現代人にとって「解脱」っていう発想がなかなかイメージしにくいとは思いますし、輪廻から脱することにそんな魅力があるんか、という価値観の不一致はあるかと思いますが、古代インドの知識人たちにおいてそれは大事だったんだと思ってください。


現代人にとっても魅力的に感じる言い方をすると、(情緒レベルまで次元を下げることにはなりますが)「もう苦しまない、悩まない」境地に行く、と思えばいいかと思います。


あるいはロマン的に言ってもいいでしょう。今現在に不満はなくても「未知のなんだかすごい世界」が存在するとなれば、自ずとそれとの接触願望も湧くってもんです。好奇心や憧れも手伝ったでしょう。


あるいはもっと野心的な言い方をすると、能力的にも精神的にも中途半端な「人間」という脆弱な存在レベルの卒業、と思ってもいいかもしれません。もっとすごい存在になりたい、ってやつです。これもけっこうあったと思いますよ。この野心のために修行しちゃう人も古代インドにはたくさんいたようです。




■完全に知ればいい

話を戻して。

ヴェーダの最後で、アートマンすなわちブラフマンなのはわかった。
その後、六派哲学のそれぞれの学派に分かれた後、『具体的にどういう状態をもって解脱達成なのか』が微妙に見解が分かれるところがあります。


しかし見解が分かれつつも、いくつかの派でなお共通して持つ発想が、

「この世界(梵)を完全に知れば解脱達成」

という発想です。


世界を完全に知る、というのはマクロからミクロにまで及びます。


ミクロ派としてはニヤーヤ学派とかヴァイシェーシカ学派というグループで、世界の構成要素を事細かく見て行きます。ヴァイシェーシカ学派は現代で言う原子論みたいになっていきます。現象をめちゃめちゃ細かく認識し、完全認識で解脱。

ヨーガ哲学として有名なサーンキヤ学派も、現象をくまなく観察するスタイルを取り、なおかつ観察できない現象として「一者」の存在を「プルシャ」と定義し、「一者」と「現象」を二元に分けて説明します。観察できない存在プルシャを悟得すると解脱。


で、マクロ派としては今もインド哲学の主流として権威を持つヴェーダーンタ学派なんかがそうで、梵(ブラフマン)というもっとも大いなる宇宙原理を、やはり理解し、完全に「知る」=解脱完成になります。


初めて聞く方にはややこしいだけだと思いますので、上の説明は置いといていいです。なんのこっちゃな話だと思います。


何が言いたいかと言うと、当時のインドにおいての

「知る」ということがもたらす効力や、「知る」ということへの信頼が、今と比にならないくらい大きい

という事です。

完全に知ったら解放、なのです。




■知っても行けない、その後の人々

知ればいいだけなら、私たちはかなり解脱に近い時代にいます。多くのことを知れる時代です。


もちろん六派哲学が求めた「知る」の対象はこの世界の「最高原理」という抽象的なものや、自然界のミクロ的な認識なので、簡単に横並びに置いての比較はできないし、「完全に」という意味で何かを知る姿勢を私たちは必ずしも取っていないので、比較対象として並べるには不相応なのですが。


それでもあえて「知るということの効果」という単純なところで見てみると、私たちは「知る」ことがそのまま「精神の解放(解脱)」につながるかたちで受け取れない仕様になってしまったのかもしれない、と思ったりします。


知っても知っても、悩みが増える。
知ったら次の疑念がまた起こる。
知ったところで感情はおさまらない。



もはやこれは、知を受け取る「器」の方がおかしくなっているように思います。


古代インドの人々は「知った」ことによって本当に心がパーーーッと開いたんだと思います。それで完成!なんです。めっちゃひねくれたことを言ってしまうと、それによって「再死再生(輪廻)しない存在になったのか」ということは誰も確認しようがないので、本人がパーーーッと開いた状態になっておれば、もう解脱って言ってもいいわけですよ(笑)。
(なんて言いつつ、そこに反証を投げかける理論もインド哲学の細部にはちゃんとあったりします。おおこわい。)


そんなシンプルなの?解脱って

と笑いたくなるかもしれませんが、実際そこで苦労しているのが人間じゃないですか。「心がパーーーッと開く」。これって本当に大事。めちゃくちゃ大事だし求めている感覚ですよね。日常の中でそこが持続すれば幸福です。でも昨今の人間は「知った」だけではそこに到達できなくなっちゃったんだなあきっと。一瞬開いても、またすぐ閉じちゃうんだなあ。



例えがあんまり良くないかもしれないけど(でも言い得ていると思う)、「知る」というのは古代の人には最高にアッパーなドラッグくらいの効力があったんだと思います。知って、ぶっ飛べて、そしてそれが持続する。(持続する。ここがすごい。いわゆるドラッグは持続しないもんね。)


今、人は同じことを知っても、市販のかゆみ止めくらいの効果しか引き出せないのかもしれません。一瞬スーッとするね、くらいの。




■器、ボディ、どうするか問題

たぶん「器」なんだと思います。器というのは知性ですね。

六派哲学くらいまではまだ知性の範囲でキメてぶっ飛べた。でもその後の時代になっていくと、だんだんと人の知性は鈍感になり、まどろみ、もっと過激な刺激を通さないとそこに行けなくなった。そうやって身体的な技法(ハタヨーガ)とか、ギリギリの苦行とか、あるいは密教みたいにいろんな法具・アイテムを駆使してそこに行こうという流れになっていきます。しかしこの時代はまだ「ボディ」で行くことができたんです。


そこからさらに時代が経って今。ボディも鈍感ぶよぶよに。そうなるともう、なかなかですよ。知性でも無理だし、体を鍛えても、やはり心が完全にパーーーッと開くというところに行けない。


どうしたもんか〜〜〜〜〜という感じですよね。

まあ、嘆いてもしかたないのでいくつかの選択肢を。


①そんなこと気にしない。人生楽しもうぜ。

②学び、鍛え、できるかぎり知と体を磨く努力をしてみる。

③学び、鍛え、物理的な楽しみもせっかくだから味わう。

④この際、出家。


まだまだバリエーションはありそうです。それが現在私たちに与えられている自由なんですが、ぶよぶよの知性はそれを選ぶことすら悩みになってしまうというジレンマがありますね。



私自身は、何事に関しても「できるだけよい問いができるように」というところに軸をおいて、様々な事象のケーススタディとして、多方面に学びたいと思っています。

と同時に、ひとつの事に集中して学びを深めることも大事だなと思っています。いろいろな事を知れる現代だからこそ、食べ散らかすのではなく、味の本質が滲み出てくるまで咀嚼するような学びをしたい。そう思っています。

前者は教養として。後者は研究として。


そういう学びを共有できたらという思いも強く「問いかけのインド哲学」という講座をやっているわけです。最後に宣伝。

よかったらご一緒に。




ナマステ
EMIRI

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