一回死ぬ儀式〜中高年に送る、死と生まれなおしの提案〜
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先日、オンラインでつながっているヨーガレッスンのメンバーさんたちと、レッスン後の座談の中でこんな話になりました。
話のスタートはこんな感じ。
参加してくださっていたメンバーのお一人が、最近読んだ本で良かったものを紹介してくださいました。インドのカースト外の下層階級の人々を救うために尽くしたある仏教のお坊さんの話、という内容でした。
そのお坊さん自身が苦悩の人生を送り、自死を選んだ経験もある、と。(結果未遂で終わったが。)
そんなこんなで行き着いた境地が、
一回死んだ(終わった)人生だと思えば、もはや“自分の”人生でもないのだから、あとはもう人々のために無私の心で尽くすだけ
という達観と、そこからの救済活動。
そういうお話を聞きました。
その話を聞いて私は、最近考えていた事とリンクする思いがあり、こんな話をしました。
■祝ってもらいたいお年頃
日本では、七五三を祝ったり成人式を行なったりして成長を祝い、歳をとると還暦、古希、米寿など長寿のお祝いをします。
それは良いとして
「間の時期のお祝いがないよな」
と思うのです。
成人式までを終えると、親族や社会がこぞって祝ってくれるような節目がない。結婚をすれば祝ってもらえるだろうけど、結婚の場合、周囲の人々が賛同するかしないかがかかってくる。かの皇族のお姫様と青年が祝ってもらえなかったように。
誕生日のお祝いなんかは、それぞれに任されていてごく個人的な範囲でのお祝い。
七五三や成人式みたいに「その時期が来た」だけで、社会的・親族集合的に祝ってもらえるものがない。
(もしかしたら古い文化の中にはそういったものもあるのかもしれないけれど、現代社会の一般においての慣習・行事としては、ないと言っていいのかと思います。)
つまりですよ。
「中年は祝ってもらえない」ということ(笑)
はははは。
節目的なものがあるとしたら「厄年」とかですよ。
祝いではなく警告ですね。
そろそろ気をつけろよ、若い盛りの頃と違って体の調子がガクッと変わってくるぜ(こっから老化だベイベー)と。
インド思想的に言うと
「ここまでに積んだカルマが大々的に成果を発揮しだす頃だぜ、背後に気をつけなベイベー」
という注意喚起ですね、厄年は。
30歳、40歳、50歳、このあたりは、いろいろな責任を両手いっぱい、背中いっぱいに背負いながら、まだまだ続く道を歩むような時期。道中でまた荷物を追加したりする。
還暦まで行けばやっと
「ようがんばりました、ちょっと座って休んでいてくださいな」
と言ってもらえるのだけど、(昨今の日本の経済的な低迷はそれすらも許さないところがあったりしますがそれはそれとして、)
育ち行く子供や成人たちを祝い、人生のまとめへと入る人々をねぎらう世代である中高年。ここに祝いはない(笑)。
いや、一番祝って讃えてほしい時期よ!
と、叫びたい人は多いのではないか、と。
■生きづらい日本
暗い話ではありますが、二年ほど前に、日本の40〜50代の自殺率が世界一、という記事を読みました。この二年で順位的な変動はあったかもしれません。しかしコロナの影響がまだ薄い段階での中年の自殺率トップ。そこにさらにコロナで深刻な追い討ちがかかったことを思うと、いずれにせよ、中高年世代の人々が自死を選んでいく国としては、トップグループにいるのだろうと思います。
人情として辛いです。
インド哲学の真理になぞらえれば、死は終わりではないと言えるけれど、それはもちろん「生の否定」ではなくむしろ生の受容。人々が、自ら死を選ばざるを得ない窮境に置かれ、どうにもならなくなって自死していくのは、身につまされます。
できれば生きたかった人も多いはず。
人生が複雑になり、歯車が増え、自分ではもうどうしようもないものになってしまっただけで、そうでなければ生きる事を否定なんてしなかった人も多いはず。
中高年期こそ、一回立ち止まって、みんな(家族とかコミュニティの人々)と人生を確認し合うような「節目」の儀式があってもいいんじゃないかと、けっこう切実に思っています。
そこで・・・
■立ち止まるための死
切実に思っている時にこそユーモアをもって真剣に考えるのが私の流儀。
冒頭のお坊さんのお話に戻りますが、「一回死んだ身だ」と思うのは中高年の時期を生き抜くために有効な考えだと私は思います。
実際に自死を選ばなかったとしても、もう人生終わりにしたいと思うほどつらくなったり、いっそ死んでんでしまいたいと想念することくらい、きっと多くの人にあるだろうと思います。
その「死にたい」気持ちをもってして、生の肯定を引き出すような「儀式」をするのはどうだろう。
「一回死ぬ儀式」です。
擬似的に死んでみて、「一回死んだのだから、ここからの人生は新たに定義づけをしていいんだ」という切り替えが可能になるような、なんらかの儀式です。
まず棺桶に一定時間入る、というのは有効な行為かと思います。実際のお葬式で行われるような様式を具体的に模倣するのがきっといいですね。
■韓国のケース、中国のケース
一回死ぬ儀式で生まれ変わる。
斬新に思う人もいるかとは思いますが、そうでもなく、ちょっとネットで調べたら出てきました。お葬式形式で擬似死体験ができる機会です。
まずは韓国の臨死体験セラピーセンターなるところでの「棺桶セラピー」。
ー記事からの引用ー
葬式の主人公になり、葬儀における一連の流れを「自分の葬儀」として体験するという療法のようです。
中国にもありました。
こちらの記事で知りました。
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO04561850X00C16A7000000/
上海の「死亡体験館」。
死亡と誕生をシミュレーション体験する施設で、2016年にオープンし大きな話題を呼んだそうです。
最初に、参加者である初対面の人々が、自分の悩みや、家族など身近な人の死などを中心に話し合う時間があり、そのあと実際に火葬炉に入れられる体験もするそうです。
火葬炉体験は、炎の映像、全身に熱風、激しい音・・・
恐怖のあまり泣き出したり失神したりする人もいる、とあります。
その後は胎内を模したトンネルを通って、この世に誕生するという3時間の「死と再生」の旅で、20~30代の若者を中心にキャンセル待ちになるほど。入場料は1人444元(約7000円)。
2016年の記事だったので、今も存在するかわからないのと、存在していたとして現在どのくらいニーズを保っているかわかりませんが、現代においてそういったものがひとつの「アトラクション(惹きつけるもの)」としてあるのがわかる記事でした。
■韓国は「がんばれ」と言う
韓国の事例と中国の事例を見て、私が構想する「一回死ぬ儀式」とちょっと違うなと思いました。共通するスタンスはありますが、大きな違いもあります。
韓国は「療法」でしょう。そして中国は記事中にもあるように「いわゆるテーマパークの一種」で、サービス業に含まれるのでしょうね。
どちらもお国の感覚が非常にわかりやすく出ているように思います。
韓国のものは、一連の棺桶セラピーのプロセスが終わった後に、センター長からの言葉がけとして
「自分たちの問題を人生の一部として受け入れ、もっとも困難な状況においても喜びを見つけられるよう努めるように説く。」
とあります。
さらに、
「あなたたちは死がどんな感じがするものかを見た。今、あなたたちは生きている。だから戦わなくてはならない。」
という趣旨のことを伝えられるようです。
(毎回同じお話かどうかはわかりませんが、記事にはそうあります。)
さすが激しい競争社会の韓国、という気もします。
生まれなおしてもまた戦って、頑張らないといけない社会。いろいろ考えさせられます。確かに、セラピーを受けたあとも世知辛い社会での人生は続くので、目的としては「頑張り直すための」儀式というスタンスがあるのだろうなと察します。
理解はできますが、私の構想する儀式とはちょっと違うなと思いました。
もし私が提案するのなら、棺から出てきたら、「黙ってしばし過ごす」でいいかなと思います。
「がんばれ」とか「戦え」という鼓舞ではなく、
(結果的にそういった感覚を後から本人が感じたとしても)
棺から出てきたら、まだ言葉も知らない存在である時間を少し取るといいんじゃないかと。
あるいは、誕生時にもっとも必要なものとして、「人の温もり」と「安全」を無条件に提供。
そこにいる人と無言で抱きしめ合うとか。それだけ。
感極まって泣いたっていい。でも誰も(本人も参列者も)言葉にはしない。言語を介さない「無条件の受け入れ」があってもいいと思います。まさに生まれた時のように。
そして終わったら、温かいお茶と甘いものかなにかを出して、集まった人たちとしばし時を過ごすなんてどうだろうか。
■中国はおもしろいサービスのひとつ
中国の方は「アトラクション」だなこれは、と思いました(笑)。
火葬炉のくだり、恐怖のあまり泣き出したり失神したりする人もいるというあたり、リアリティを高めるポイントがそこか!と思ってしまいました(笑)。サービスしどころが中国っぽいなあと思ったのは、ちょっと偏見もあるだろうけど(笑)。
私だったら、リアリティを高めるポイントは「闇と静寂」の方に持っていくと思います。韓国の棺桶セラピーの方がちょっと近いなと思いました。
ヨーガ的な感覚で言いますと、「五感が閉じていく」ようなところに体験のピークを持っていけたらと思います。
五感を外界から遮断し、「死」というひとつの生命活動に触手を向かわせます。それをどうやってやるかと言うと、やはり一種の瞑想体験への誘導になるんだろうと思います。
そして必須なのは「闇」ですね。物理的に完全な闇を作ります。真の闇は人を癒します。
■中年〜壮年に贈りたいのだ
韓国と中国のバージョンを見てみましたが、韓国の方は「治療の機会」であり、中国のものは「サービスとして体験できるコンテンツ」。どちらにしても、自分で求めてそこに出向き、体験するものですね。
どちらも若い人たちにニーズがあるとされていますが、ここで私が考えるのは、通過儀礼のない年代である中高年の時期の行事として想像しています。
年はそうだなあ・・・
45歳くらいがいいんじゃないな(笑)
うーん、どうだろう。
あ!そうか!
七五三みたいに段階を踏めばいいんだ!
(今思いついた!笑)
だとすると・・・
36歳、46歳、(ここは男女同じで)
で、女性51歳、男性55歳、このあたりで3回目を行うとどうだろうか。
30、40、50という「ぴったり」な歳じゃない方がいい気がします。
ぴったり年は、もうそれだけで「あーー30になったわーー!」とか「やべー40かーー」と考えて、あーだこーだ思うものなので、そこはいったん自分で通過してもらう。
ぴったり年は数字的にビビッドな節目なので、30歳だとSNSで「30になりました♪これからもよろしくお願いします(ハート)」とか宣言したりする人も多いし、友人が楽しく祝ってくれたりもするでしょう。「30に見えない!!」とかコメントもらって承認欲求をまだ満たせるので、通過しときましょう(笑)。
ぴったり40歳と、ぴったり50歳になる時は、特に女性はもう「公言」しなくなります(笑)、だいたいね。
だいたいの人は、その重みや実質的な身体の変化を自分で重々噛み締めています。なのでここもあえてそこで儀式はしなくてよし。
問題はそのあとですよ。
30、40、50の、それぞれの年代の「真ん中を過ぎたあたり」が、心理的にやばい、危ういところです。
もちろん年齢感覚だけではなく、特に40過ぎますと人生諸々積荷がいっぱいになってきますので、年齢だけで節目の時期を決められないんですが、ごく一般的な心理的傾向として「それぞれの年代の真ん中を過ぎたあたり」で「次の年代」が視野に入ってくる、その焦りや、平たく言うと「確実に歳をとっている実感」みたいなものはあると思います。
というわけで、36歳、46歳、(男女同じ)
で、女性51歳、男性55歳
■体のこと
女性51歳、男性55歳
50代を男女で分けたのは、身体的なところです。
女性は50代序盤だと、まだ更年期を移行中の人が多く、女性ホルモンの変調でメンタルが大暴れすることが多いものです。ですが多くの女性を見ていると55歳あたりで「スカっと抜ける」方が多い。更年期が「収まって」いくんでしょうね。
「なんだったんだ今までのあれ、バカみたいにヒステリックでいっつも具合が悪かったな。あれ私じゃなかったな、よし、旅行行こ!習い事しよ!」
みたいな感じで、心身ともに吹っ切れて元気になる女性は多いです。(あなたの周りにもいるはず!おかんとか)
ですので、女性50代の擬似死通過儀礼は、身体の変調がつらい序盤にあてるとどうかな、と思った次第です。
「そんなに悩まなくていいよ、この先抜けるから大丈夫だよ!」という感じで。
55歳くらいをすぎると「月経という呪縛」からほぼほぼ解放され、儀式なんてなくても「生まれ変わる」感がある女性は多いように思います。生き物として自然な生まれ変わりがある、ということですね。
いっぽう男性は、女性ほど明確な身体変化がないぶん、長期的に鬱々とするのが50代に多いように思います。
ですので、50代の真ん中あたりで一回擬似的に生まれ直しておくといいんじゃないかと思いますがどう思いますか?
男性の皆さん、ご意見あったらくださいね。
この30、40、50代で好きな回を選んでもいいし、全部やってもいい。
■サービスじゃだめなんだ
「一回死ぬ儀式」として私が思い描くものは、前半に述べたように「時期がきたらみんなが受けるもの」で、人生の通過儀礼です。
(もちろん七五三を全部やらない家庭もあるし、成人式に興味がない若者もいるとは思いますが、一般的にそういう節目ムードを持つ、という感じ。)
ですので場所は、治療施設やアミューズメント施設ではなく、自分の家がいいんじゃないかなと思います。
あるいは七五三や、厄年にお祓いをしてもらう感覚で、神社。そういった儀式を受け入れて場を貸してくれるお寺とか。(あくまで理想として想像しています)
こじんまりとした空間がいいと思います。
集まる人は、家族、友達など、実生活で頻繁に接する人。
彼らは「死と生まれなおし」の証人になります。
なんども言いますが、七五三、成人、還暦等のお祝いと同じ文脈にある儀式として行いたいので、「普段から共に生きている人(家族や本当に近しい友人)」がサポートして、最初から最後までいっしょに行うのが理想です。けして式の時だけ参加する「お呼ばれ」ではないのです。
仮に、普段はバラバラな家族でも、この時は協力して行う。
しばらく距離があった友達でも、古くからの友達ならば、この時は駆けつけて手伝う。自分の番になったら参加してもらうことにもなるので。
ドラマも起きそうですね。なんだか一本の映画になりそうです(笑)
場をリードする役目として私みたいな人物が一人いるとして(笑)、祭官の役割をします。これは人というよりも儀式の中の装置のひとつとして、場をさりげなく進行できる者ですね。韓国のセンター長のような、説教や励ましをする人ではなく、あくまでも介添えのみをするのがいいのだろうと思います。
こういうのが風習くらいになるのを想像したりします。
これは医療行為でないし、サービス業が提供するものでもなく、あくまでも「人生の途中の、生活の中、関わりのある人たちにおいて」で行われるものでないと、と私は思います。
ですのでこの記事を読んで「これサービスになりそう、いいじゃんやろうよ」と思った方いらしたら、踏みとどまってほしいです。
現代は、自己の確立、精神の回復、救済、こういったものが商売と結びつきすぎています。サービスは、何かを与えているようでいて、同時に何かを奪い続けているんです。それが人々の「病」をエンドレスにしています。
■証人、そして承認
実際の儀式で具体的に何を行うのかは、いろいろ想像しているのですが、故人(死んでないけど)の生前(死んでないけど)の想いが、結婚式の「出会いから結婚まで」の映像みたいに流れたりする、というのがベーシックな感じでしょうか。
どうやったら、一番「リセット」感が高まるか。
ちょっとみなさんも考えてみてほしいです。
まさにセラピー的に、思いを吐き出すような場面もあったほうがいいでしょうか。
それまでの人生における様々な思いを、人間関係への気遣いや、見栄や羞恥心を捨てて吐露する、というような場面があるといいでしょうか。
またはユーモアたっぷりに死んでみるのも悪くないと思ったりします。昔ながらの白い三角頭巾と白い着物の死装束で、冥土への旅支度を演出するのもいいかもしれません。
と、こういう話をオンラインのメンバーさんにワーワー話していましたら、お一方が、
「そこに家族や友達の承認がある、というのがキモですね。」
と賛同してくださいました。
そう!そうなのです。
韓国のケースを見ると、その場にいるのはセラピストであったり、中国のケースはまさにサービス提供のスタッフで、擬似死を体験する本人とは日常的には関係ない他人です。
私が想像している通過儀礼では、家族・知人・友人の「目撃」が必須なんです。
なぜなら、儀式の後も人生は続くから。
続きの人生を共に歩む人々が「この人は一回死んだんだ」「人生を再構築する時期なんだ」ということを受け入れるのが非常に重要で、むしろ本人よりも周囲の人間の「その人を見る目が変わる」ことが大事に思えたりもします。
それこそ成人式みたいに「彼はもう未成年じゃない、大人なんだ」というような認識を持つように。
私たちは、良くも悪くも他者の期待する自分を演じようとします。他者の想像するところの「わたし」から大きく離れないように、無意識に自分を繕う性質があります。きっとそれは人類の長い歴史の中で養われた生存戦略なのでしょう。
ですので、多くの人が本やカウンセリングなどを頼りに自分を変えようとするのですが、あるところまでうまくいったりするのかもしれませんが、既存の人間関係の中に戻って行った時に、それまでの「振る舞いの癖(古い方の自分)」が出てきてしまうことも多いと思います。
とくに家族に対してが一番強いのかもしれないですね。既存の自分を演じてしまい、自己改革した新たな自分が薄れてしまい、結局もとの、過去の自分に。
そういう意味でも、私の想像する擬似死の儀式は、そこにいる全員にとっての通過儀礼で、「ある一人」への認識をみんなで変えていくのが最重要ポイントになります。
30代から50代くらいの人ための儀式なので、そこには自分の子どもとか、後輩とか、仕事の部下とか、年下の人々も含まれます。
子どもにとっては自分の親が、それまでの人生で抱えてきたものを一度下ろし(そこには子である自分も含まれる)、自分のお父さんお母さんという役割もいったん放棄するのを目撃します。
当たり前のようにお父さんとかお母さんだった人が、数時間ですが「何者でもない者」になるのを見る。
これは、人間の存在や人生というものを哲学的な視点で見る体験になると思います。
お母さんにだって、全てを白紙に戻したいという気持ちがある。
お父さんだって、当たり前のように頼られるのに疲れた、すべてをやめたい時もある。
そもそも人間の存在は「役割」じゃないんだ、と。
役割は、あえてその人が引き受けているいっときの仕事。
そういうことを感じられれば、家族というものを継続するうえでの、無自覚な「役割の強制」という圧力を掛け合うことが少なくなるように思います。
そして儀式を終えた本人は、その後の人生を再考し、望むなら今までの自分とまったく違う人間になったっていい自由を感じられればいいと思います。
それには、周囲の近しい人々が「あなたはこうでいて」とか、「あなたはこういう人」という無意識の圧力をかけていかことへの気づきや、その圧を緩めるタイミングなんだ、ということを儀式を通じて認識する機会になるのがいいと思います。
そうしたらば、実際はその後も同じ環境で、同じ人々と共に生きて行く人生だとしても、どうにもならない閉塞感や喉の詰まりは、楽になるところがあるのではないかと。
完全放棄はできなくても。
そして本人は
「一回死んだんだ。残りの人生、これまでのものを引きずらなくてもいい。今からでもいいものにしよう。」
と思えればいいですよね。
■最後に
長々書いてしまいましたが、これは私の想像の中の儀式です。
実際にそういうことが、社会の中で風習化されることは、きっとないでしょう(笑)。今から始めたとしも風習レベルで根付くのは、長い時間の先のこと。きっと私は「本当に」死んだ後でしょうね。
ただ、想像するだけでも少し救われます。
やりたい人だけでもやればいい、と思うので。
このアイデアがいいなと思った方は、家族や友人と一緒にオリジナルの死と再生の通過儀礼を作ってみたらいいと思います。
私自身、近しい人々と試行錯誤して、素晴らしい再生の儀式を作ってみたいものです。
■祭祀の残りものを食べるもの
最後に、インド哲学研究家なので、ちゃんとそっちでまとめたいと思います。
ヒンドゥー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」の中に、ちょっとわかりにくい文言が出てきます。
「祭祀の残りものを食べる」というところが意味不明に思うかもしれません。
これは、
「すべての行為を絶対者(神)に捧げ、行為の結果(果報)を顧みず、最高神に捧げる祭祀として行為せよ」
という考えに基づいた詩句です。
自分を満足させる果報のためではなく、すべての行いを神に捧げる人を「祭祀の残りものを食べる人」と表現しています。
「自分のために生きるな」と言われているような気分はするかもしれませんが、それは確かにそうなのです。
自分のためだけに行為すると罪を食べることになるよ、と。ここで言う「罪を食べる」とは、「救われない行為を繰り返す」ということです。
「擬似死の通過儀礼」のことを書きながら、この詩句が頭に何度もよぎりました。
伝統的な解釈とは違いますが、
祭祀の残りものを食べるひと
という文学的な表現が「擬似死の通過儀礼をして生まれなおした人」を形容する言葉のような気がしたのです。
(あくまで私の感覚です。ギーターの教義的な解釈とは違います。)
自分の人生を「死」にいったんお返し。
それをもう一回引き受けなおすという祭祀。
残りの人生は、神様に捧げられた供物の残りもの。
よく噛んで、味わって、人生を養えばいいじゃないか、と思えてくるのです。
さてさて本当に長くなりましたが、最後まで読んでくださり本当にありがとうございます。
心に響くところがあったら幸いです。
ナマステ
EMIRI
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