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現代の豊かさ病「自己肯定感」についての考察



この記事はサイトから発行のメルマガのアーカイブ記事になります。

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「自己肯定感が低くて悩んでいる」という相談内容は、全体の中でも多いテーマです。


このメルマガでも度々お話させていただいております、漫画家の山田玲司先生との対談形式のインド哲学講座の収録が先日あったのですが、その中で視聴者さんのお悩み相談コーナーが開設されました。


たくさんの相談メールをいただいたのですが、その中でもやはり自己肯定感が低くて悩んでいる、なかなか自分を肯定できない、という相談が多数ありました。


自己肯定感を高めるための心理的なエクササイズみたいなものも世の中にはたくさん紹介されていて、例えば「肯定的な言葉を自分自身に言い続ける」とか「ありのままの自分をそれで良いと受け入れる」などなどありますよね。


もちろんそういう心理的な試みがうまく働いて自己肯定感を高めることができる人もいると思います。


しかしそれだけではなかなかうまくいかない人もいます。
多くの「良いアドバイス」が、書籍でもネット上でも手の届く範囲たくさん溢れている中で、それでも自己肯定感に関してうまくいかない人がいるのも確かです。


私が思うのは、「自己肯定感のことを一回忘れてみたらどうかな」と。


実際に「自己肯定感が高そうな人」というのは、自分に対して自己肯定をいつもしている人ではなく、その件に関して取り合っていない、気にしていない人のようにも思います。


別の言い方をすれば「違うことに興味がある」ので、自己を否定したり肯定したりという二元的な心理行動に頓着していない人とも言えます。


私もそうです。
自己肯定感、めちゃめちゃ強そうに見えるようです(笑)。
確かに自己否定はしてないですね。
私自身は、自分に対して肯定も否定もどっちもそんなにないのです。


みんなを楽しませるために「めちゃめちゃ自己肯定感高くてエネルギー高めでアホな事を言うの人」をある種パフォーマンスとして興じる事はあります。


それは、みんなが笑ってくれて気楽になってくれて、そして仕事がうまく進んだり場の空気がほぐれたりするからです。
そしてそういうパフォーマンスをしたとしても私のエネルギーは減らないし、不自然さを感じないし、むしろ高まって楽しくなるので、ニーズ&役割的にやっています。



思うに・・・

「自己肯定感」というものは「求めて」手に入るものではないように思います。


そしてそんなに求めなくてもいいとも思っています。


求めると求めるだけ、それが「ない」感じが辛くなってしまったり、ダメ感が強まってしまうように思います。これは他の感情や思考にも同じことが言えると思いますが。



実は・・・もしかしたら・・・


「ない」とか「低い」とか思っていること自体に心が曇ってしまっていたのかもしれない。


そうだとしたら、ちょっと気楽になりませんか。



幸せを感じるのにプリンがたくさん必要なんだ、とどこかで教えられ、

冷蔵庫に「プリンがない」ことに気がついて、

プリンがない、どうしよう、これはあんまり良くないんだ、ダメなんだ、と思い、

プリンをどうにかして手に入れないと私はうまくやっていけないんだ・・・・

プリンが欲しい、プリン欲しい、

プリンさえ手に入れれば他の全てがうまくいくんだと思う・・・


と、思っている人がいたら。

いやいやいや、待て、となるでしょう(笑)

プリンがないとだめなんだっけ???

という感じじゃないですか。


もちろんプリンはその辺ですぐに買えるものなので、例えとして並列ではないかと思いますが(笑)、極端に例えるとそんな感じ。ぶっちゃけそんな感じ。



■自己肯定は置いといて、自己認識を


そもそもですね、

「肯定」の対象である「自分」というものをちゃんと知っているか、という話だと思うのです。


「よく認識できていないもの(ぼんやりしか見えていないもの)」を「正しく評価」するってのは、どう考えたってうまくいく作業じゃないですよね。


度なしのサングラスをかけた視力0.01の人が、50メートルほど先にあるたくさんケーキが陳列されたショーケースを見て、
「あのケーキは全部ダメだ、絶対不味いに決まってる。」
とか言っているような感じですよ。


いやまずサングラス外して、近くに行ってもっとよく見てみようよ。
となるでしょう。


でも人の心って、何かにつけてこういう類のことをよくよくやってしまうものなのです。そしてそれを「自分」や「他人」に向けるんですね。


自分の目も色眼鏡がかかった状態で、そして対象をよく観察することもせずに、「ダメだ」とか「いい」とか思ったり言ったりします。


もしも「自己」というものをこの程度の精度で見ているとしたら、正確に肯定も否定もできません。


入試の答案用紙を見たテスト採点員が

「とりあえず名前が好みじゃないから、こいつ25点。不合格!」

とかやってるようなものです。


何を評価するのか、その対象自体がよくわかっていないのに肯定しようとすると「うまくいかない」のは当たり前と言えば当たり前で、対象がはっきりしてしないのだから肯定も否定もうまく考えられません。


そんな、対象をよく見ていないぼんやりした分別のうえで、


「これ(自分)は肯定できるものじゃない、ってことは否定なんだ


という公式で考えているとしたら、それはちょっと乱暴だし雑すぎる理論だと思うんですよね。


肯定できていない=否定

ではない。そう思いませんか?


好きじゃない=嫌い

とも限らないでしょう。


まな板の上に上がっている「自分」というものを、あまりよくわかっていない段階で「肯定/否定」するというのは乱暴で、乱暴なレッテルを自分に貼るのは、あまりにも自分への愛がないように思います。
そんなことをずっとやっていたら病気になります。



というわけでね、


「自己肯定/自己否定」のことはちょっと置いておいて、

「自己認識」ってできているのかな


と考えてみると、冷静になれるし、おもしろいと思います。

肯定されるべき対象か、否定されるべき対象か、というところではなく、

自分ってどんな要素で構成されているんだろう、というところを

ちょっと科学風な目線で観察してみるといいように思います。



良し悪しの判断をするためではなく、「自分」というものをなるべく正確にそのままに認知し、その認知された事柄に、今度は自分自身で「さっきはそう思ったけど本当にそうかな、それ以外の自分という要素もあるかもな」などなど、違う角度での認知を与えてみます。


そうやって自分なるものを構成している様々な要素を知ってみると、

これは「土」と同じで様々な有機物、無機物が混ざり合った複合的な存在であることがわかってきます。


それを大雑把に「私」とし、大雑把に肯定したり否定したりするのではなく、地球や宇宙と同じように、自分というのはたくさんの要素で出来上がった「土壌」であり「空間」なのだと感じられるようになれば、肯定か否定か、ダメか良いか、というのが主題ではなく

「この土壌でうまいこと育つものってなんだろう」

とか

「こういう複合体から、何かおもしろいものって生まれないかな」

という発想を持てるように思います。


冷蔵庫を開けた時に中身をよくよく見ないで

「これはダメだ」とバタンと閉めたり、あんまりしないでしょう?(笑)

とりあえず何が入っているかをざっと見て、

豆腐とひき肉があるから麻婆豆腐にでもするか

くらいは思えたりしないでしょうか。


 プリンがない・・・・(落ち込み)
        
パタン・・・・(否定)


自分に対してこんな風にならなくてよいのです。

自分というものの中には、いろんなものがあります。

それらをめんどくさがらずに時間を作ってよくよく見てみて、

そして複合的で有機的なひとりの人間として

「私」という集合体から工夫して何かを生み出してみよう

と考えてみるといいと思います。

きっと何かおもしろい芽が出て、おもしろい花を咲かせ、おもしろい実をつけるような要素があるんですよ。


で、こう言うと「おもしろくないとダメなんですか」「私の中にはつまらないものしかありません・・・」「私は笑いのセンスがなくて、そう言う風に考えられません」

と言われる事を想定し・・・(笑)


心配しなくて大丈夫です。

作業自体を楽しんでみてください。

というのも「知る」という心理作業を楽しめるのが人間の脳であり、心であり、

自分の中から何が生まれてきても、それを「知る」のがそもそも楽しいこと。おもしろいこと。

「よく知らない」から自分のことをつまらなく、価値のないもののように感じるのです。


ひとりの人間というのは宇宙そのもので、人間が未知の宇宙に思いを馳せてロケットやら衛星やらを遥か空へ打ち上げることにワクワクするように、自分自身を知っていく作業そのものを楽しんでください。



「自己肯定重要論」みたいなものも世の中には確かにありますし、それを否定したりもしませんが、全員に必要とも思いません。


そういう風潮になんとなく同調して、ないとダメなんだなと「思わされている」のだとしたら、いらない可能性もあります。


外から与えられた幸福や満足の基準に影響されて飢餓状態なる。

飢餓状態になる。これとっても良くないです。

「求めてしまうことで不足感を高める」。

そっちが苦しいことになってないか。

この辺りをよーく検証してみるのが良いと思います。



■実際なにがつらいのか・・・

別の角度の検証もしておきます。

自己肯定感が高かろうと低かろうと、それでつらくなければそんなに問題ではないと思います。

実際にいますよ。自己肯定感が低くても、それが「つらい」に結びついていない人も。私の周りにはけっこういます。

そういう人たちがどういう心理で生きているかというと、

「自己愛の充足」に頼らなくても、他の喜びを自分の喜びとできる人です。

いきなりここまで行かなくてもいいので、そんなに気にしなくてもいいのかも、くらいに思ってもいいかもしれません。



まあしかし、確かに「私は自己肯定感が低くて・・・」と相談してくださる人は、それによって「なにかがつらい」からこそ、そういった相談になってくるのは確かでしょう。


実際、なにがつらいのか。


そこをもう少し掘り下げて、言語化できるレベルに持ち上げる必要があると思います。


自己肯定感が低いことで(      )になるのがつらい。


このカッコ内に入りそうな心理状態や身体状態を言語化してみるといいと思います。

例えば、

自己肯定感が低いことで(自分はダメだと思うのこと)がつらい。

とか

自己肯定感が低いことで(やりたいことがあっても行動に移せないこと)がつらい。

とか。

このカッコ内に入りそうな案件に、自己肯定感どうのこうの、という思想をちょっと横に置いて考えてみるといいと思います。問題をいっしょくたにしないで。


案外、カッコ内の内容を正当化したり、そうだと思い込むために「自己肯定感」という概念を利用している可能性もあります。


先ほどの例に挙げた、

「自分はダメだと思うこと」がつらい

「やりたいことがあっても行動に移せないこと」がつらい


もしかしたらこれは自己肯定と関係ないかもしれないです。


ただ単に、自分のここはあんまり良くないなと感じる部分を、ちょっとでも改善する行動があれば気持ちは上向いてつらくなくなるかもしれないし、やりたい事を一歩でも(なんなら半歩でも)いいので行動に移せば違う景色も見えるものです。



思うにこれは、自己肯定どうのこうのの前に、

プライド

の問題のような気もします。


自分に対して、本来の自分と離れた理想像を持っているか、あるいは理想が高すぎるのかもしれません。


その妄想的な理想と自分の現在の在りようにギャップが大きくて、そんな自分を人に晒す事を考えると、怖気付いてしまうのかもしれません。


プライド。
これは思っている以上に自分の心と行動を束縛するものです。


多くの人が潜在的に持っています。普段は見えないところに隠れていて、あたかも「そんなものないです、だって自己肯定感低いんですから、プライドなんて持ってませんよ」という顔をして、影から思考を操っているものです。


理想の自分。
持っているのは悪いことじゃないのですが、それに縛られて自分を狭いところに閉じ込めていないか。

そんなところも考えてみると何か発見があるかもしれません。



■余裕があるのかもしれない。


さて。

ここまで読んで、そっか、そういう考えもあるか、と思えたり、

ちょっと気楽になれた人、それほど問題ではなかったことに悩んでいたな、と思えた方は、「自己肯定感がある/ない」というところにもういなくていいかもしれません。


自分の興味があることを、楽しんで生きてください。

思い通りにいかない人生を気楽に楽しみましょう。



それにですね、自己肯定感について考えていられるというのは、実際ものすごーーーーーーく余裕がある環境で生きている、という事なのかもしれませんよ。私はそう思っています。


今現在も、戦場で生きざるを得ない人々。

今この時も、生きるか死ぬかで必死に生きている人々。

そういう人たちを思ってみると・・・

彼らは自己肯定のことなど考えていられません。


つまりある程度平和な場所で、ある程度充足して生きていられるから、「自分」のことを考えて悩んだりできるのです。


今いる環境や状況、屋根のある家があり、着る服があり、食べるものもあるのなら、時代的にも恵まれたし、境遇にも恵まれているし、世界的に(相対的に)見て、そうとう恵まれたところにいます。


自分を肯定とか否定とか、ちょっと横に置いておいて、世界を見てみるといいと思います。


実際、「自分について悩める」というのは、豊かさの中にいるからこそできる娯楽みたいなものなのです。

豊かな時代病

のひとつです。



って、なかなかカライ事を述べてしまったかもしれないですね。
でも考えてみる価値はある発想だと思います。


そんなにも自分自分言っていられるゆとりがあるのですから、自分の中には「何かしらのパワーがあるのだ」と思ってみて、「自分」に向けることで閉じ込められているエネルギーを、誰かの幸せや、より良い世界の創造のために使ってみようか、と思えるのなら、自己肯定感などなくても本当の人間愛的自己世界が広がるかもしれません。



■要注意なケースもありです

ただ、ここまで読んでも心が晴れず、もっと深刻な思いが心を圧倒するのなら。

例えば「生きること自体に価値を感じない」とか、「私など生きている価値がない」とか「死にたい」いう思いが、自分でも制御できないレベルでいつも湧いてきてしまう場合は、上記に述べたような「視点の変換」で物の見方を変えたりする段階を超えている可能性もあります。


脳そのものがストレスや抑圧で萎縮してしまっている可能性があります。
脳自体が部分的に損壊してしまっているかもしれない。


つまり鬱症状のひとつとして自己否定が起こっている可能性もあるので、もしまったくもって心が楽にならないのなら、なるべく早く現在抱えているストレスから一旦身を引いて、そして医師や専門のカウンセラーに相談することをおすすめします。


上記に述べたような「価値観の更新」や「視点の変更」というのは、ある程度脳がちゃんと機能していて、心身がいわゆる普通レベルで働いている人向けのアドバイスです。


もうその段階にはおらず、「自己否定」が「生きていること否定」に入ってしまっているようなら、「思い方の変更」を努力する前に(その努力がさらなるストレスになる可能性もあるので)


自分の話を否定せずに聞いてくれる人に話をしたりして、現状のストレスに発露を与えつつ、そしてなるべく早く専門医にかかるのがいいと思います。

「自分の程度は、まだ大丈夫」とあまり思わないで、はやめがいいと思います。

長く脳をストレス下に置き、長く心理的に患うと、それだけ脳の欠損が重くなり、不可逆なところに行ってしまいます。その前に、まず「休んだ方がいい」ことを認識し、医師に相談して欲しいです。


本来的に人生というのは、これまた不思議なことになんらかの「なんとかなる道」があったりするんですよ。

でも心を患い、脳が萎縮し機能を破壊されると、そういう風に思えなくなってきます。

慢性的に深刻な気持ちを持っていたり、呼吸がうまくできない、

ずっとだるいし体が動かしにくい・・・

そういう状態でしたら、本当に早く、

医療による救済というものもあるんだ、と思ってお医者さんに行ってほしいです。

「思考を変える」というのは、体で言ったら「新しい筋トレのエクササイズを導入する」みたいなもので、そもそも筋トレができる状態にある人がやることです。

同じように「思考を変える」というのも、普段使っていない心の筋肉を活性化して鍛えるようなもので、それは心がある程度、通常モードで稼働している段階で行うべきことなんです。


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というわけで、今日は自己肯定に関してお話をしてみました。

いろいろ書きましたが、みなさんが明るい気持ちでのびのびと生きることができれば嬉しいです。

またお話しましょう。


ナマステ
EMIRI




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https://www.heartmatrix555.com/
記事編集:師岡絵美里

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