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資本主義の「自由」と脱炭素の「制限」で思うところ

たまに、ふと疑問に思うことが出てきます。その疑問は大抵曖昧な言葉なので、具体化するためにネットで調べて、自分の疑問が無知からくるものなのか、それともちゃんとした疑問になっているのか調べたりしています。

この記事は、そんな疑問を調べた結果の忘備録です。ですので、意見というものもなく、結論もない、ただの思考の記録です。

水素の今の水素スタンド価格は100円/Nm3くらいのようです。今はコストは高いけど、日本政府は将来、30円/Nm3を目指していくよ、としています。円/Nm3の安い水素製造技術を開発していくという目標です。

でもSDGsの観点からいうと、「どれだけ環境負荷をかけずにエネルギーを無駄にせず水素をつくれますか」という指標で評価されなくてはならないのではないか?と思うのです。コストはその次のはず。

円/Nm3で評価しようとすると、今現在の製造技術毎の良し悪ししか判断ができません。また、環境負荷については全く表現されてません。製造技術の良し悪しは、技術発展や大規模化によって変わっていきます。それを説明するためには、円/Nm3の推移を示しながら、「こういう経緯で、安価になるポテンシャルはありました」という言葉や表で表現することになります。環境負荷への影響もこれだけでは不明ですので、コメントと共に示されることとなります。

コストでの環境影響評価は非常に間接的です。結果的、という表現も当てはまると思います。更にいうと、いまいまはコストが高いけれど、環境負荷をかけずに水素を取り出せる技術の現在の評価は低くなり、技術が埋もれてしまう可能性もありそうです。

また、水素が環境負荷に貢献することを表現するのにこういった説明が必要ということは、解釈の違いが生じる隙を生む可能性があると思いました。「経済発展したいのに、なぜ高いコストのものをわざわざ採用するの?下がってから考えるよ」という意見に、いちいち解釈を加えて説得しなくてはならなくなると思います。

ところで、この思考が「水素が環境負荷に貢献できる」という前提になっていることに気づきました。どのくらいの貢献が期待されているのか、抑えておく必要がありそうです。「エネルギー 計画 日本」で調べてみると、「エネルギー基本計画(素案)の概要」というのがヒットしましたので中身を見ると以下でした。

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あれ?水素は全体の1%、、、、どうやら水素が環境に貢献するのはエネルギーそのものの観点ではなさそうです。化石燃料やアンモニアとの混焼や蓄電の観点で水素は期待されているようですね。なにか、「水素社会」という大号令にしては大分数値目標が違うのに違和感がありますが、いろいろな理由があるのでしょう。そういった視点をもって水素社会の資料を読むべきということだと思います。

一応、水素は環境負荷に貢献しているとして評価方法についての思考に戻します。

このSDGsとリンクしない、という違和感があるコストという単位指標で水素を評価してるのはなぜ?と考えました。

なぜ「円(貨幣)」で評価しているのか?貨幣で価値を表現するのが経済的観点での利便性があるからだとは思います。そこで貨幣(円)の意味を改めて調べてみました。「貨幣 価値尺度」で検索すると、貨幣は形のない価値を尺度をもって示すものということが分かりました。

「どれだけ環境負荷をかけずにエネルギーを無駄にせず水素をつくれるか」は価値ですが、それは「現在の」貨幣の価値に反映されていないのではなのでしょうか?SDGsでは、コストが高くとも環境負荷が低い技術を評価しなくてはならないはずなのに、「有望な技術ならばやがて単価は落ちる」として、円/Nm3の推移で語られることしかできないないのが現状のようです。

とすると、価値の基準と表現方法が違和感の正体ではないか?との考えに至りました。

そこで現代の貨幣が反映している価値尺度とは何からきているか?と考えたとき、資本主義に辿りつきました。資本主義を学習する意味で「資本主義とは 簡単に」で検索したところ、下記の文章がみつかりました。

資本主義をシンプルに表現するならば、「“個人が自由にお金儲けをしてもいい”という社会を目指すもの」といえます。

「個人が自由にお金儲けをしていい」という思想がでてきました。SDGsとは、例えば脱炭素などで「自由」を「制限」しているともいえるのではないでしょうか。ここに矛盾がありそうです。

ただ、今はあまりこのことが取りざたされていないとすると、おそらくこれは制限でなく「ルール」と認識しているのではと思います。「資本主義 自由 ルール」と検索してみると、奥の深い世界が広がっているようです。ただ、この「脱炭素というルール」は、資本主義の価値において著しいコスト増を招くものだと思います。ルールと考えるよりは「制限」と見なして「現在の資本主義」と矛盾していることを受け入れた方が良いような気もします。どちらが正しいのか。矛盾を受け入れるために、「脱炭素は制限でなく資本主義におけるルールだ」として、「自由」を弁護しているようなダブルスタンダードのようになっていることが、コストで環境負荷を低減する技術を評価しようとする違和感の正体のようです。

ルールであれば、コストと並んで別の評価軸が必要かと思います。ルールが曖昧だと困るからです。SDGsにおいて環境負荷に関してのルールとして考えられるのは二酸化炭素の排出量でしょうか。でも二酸化炭素の排出量ではエネルギーは評価できないでしょう。それを抑えることが目的であれば、究極的には原始時代の生活に戻れば解決です。コストも二酸化炭素量も大事ですが、それを補完する評価方法って考えられそうなのでしょうか?ということを下記で思考してみました。

こんな矛盾の可能性にたどり着くと、同じ違和感を持つ人がいるのでは?と思い、「sdgs 資本主義 矛盾」と調べてみたら、いろいろな関連記事がでてきました。脱資本主義!まででてきてます。SDGsの進めるにあたって、資本主義とどう向き合っていくのか。この思考結果はSDGsを考える視点の一つとして重要そうですね。この疑問を出発に、またいろいろと思考できそうです。この視点の自分なりの答えを見つけるために、いろいろ資料を読んでみようと思います。




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