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本紹介『「痴呆老人」は何を見ているか』

この記事は昨日書く予定でしたが、気力がわかず何もしないまま気づいたら1日終わっていました😇
書くことがなさすぎて、更新自体も出来ず。。

と、今朝は天気も悪いし暇なので、頭の準備体操がてら読んでいた本の紹介です。

本屋さんを彷徨っていて、タイトルに惹かれ購入してみました。

福祉関係の本かと思って購入される方がいらっしゃるかもしれないので注意しておきますと、この本は「老い」を中心とする思想の本です。
ちょっとタイトル詐欺感ありますが💦

「痴呆老人」(現在は差別語として使用が憚られますが、敢えてこう書かれています)、および高齢者の仲間入りをしつつある筆者の体験から、何をもって「痴呆」とするのか考察していく内容です。

本書は8章構成ですが、自分なりの要約の意図も込めて、章題や構成を一部変えて紹介します。

出典示しているし、章題だけならそのまま写しても引用として問題ないはずですが、一応ね。。

①環境が「ボケ」具合に影響する

まず、「ボケ」(=痴呆)と「認知症」の違いについて語られています。

「ボケ」は他人から見て、その人の認知がおかしくなっていると判断した際に使われる言葉なのに対し、「認知症」は記憶力や判断力の低下によって社会生活に支障をきたしている状態を指す言葉で他人は関係ない。

したがって、「認知症」ではあるが「ボケ」てはいない、という状態が起こりえる。また、認知症自体の程度が軽くても、周囲の人間関係が悪ければうつ状態を誘発して、余計に「ボケ」ているように見える。

周囲の人間関係とは、家庭だけの話ではなく地域性も関係していて、例えば敬老文化が根強い地域では認知症がある程度進行しても、うつを合併することが少ないため生活は穏やかである、とのこと。

②情報共有≠コミュニケーション

次に、コミュニケーションについて考察されています。
コミュニケーションは「情報」的側面だけでなく、「情動」的側面も持つと言っています。

老人ホームでの会話を聞いてみると、話している内容がかみ合っていないのに、リズム的には会話として成立しているように見えることがあるそう。

男性は「問題解決」を、女性は「共感」を会話に求める傾向があると言われますが、これともまた違う話で、会話をする上で大事なのは、内容ではなく、実はリズム感なのかも知れませんね。

③私と世界

続いて、老人の世界のとらえ方から、私とはそもそも何なのか、という認識論に話が移っていきます。仏教用語も出てきて、急にどうした?!と思いましたが。。根本煩悩とか、アーラヤ識とか。

老いが進行すると、新しい情報が入ってきてもうまく記憶できず不安につながるだけで、「情報」の価値が薄くなっていくようです。

人間は成長とともに、言葉でつながることによって自分の世界を広げていき、老いてくると世界が狭まっていく。

人間は世界との「つながり」によって成り立っていて、「つながり」が失われることに何より苦痛を感じ、形を捩じ曲げてでも守ろうとする。
「痴呆」の老人が、ひとり昔の記憶の世界に入りこんでしまうのは、認知機能の低下による「つながり」の喪失から自分を守るために世界に適応した結果だと考察されています。

こう考えると、大多数のとらえる現実と大きく離れていて、かつ、その人が高齢だった場合に「痴呆」と呼ばれるだけ。
自分の都合のいいように世界を捉えることは誰でもしているのだから、人間はみな大なり小なり「痴呆」なのではないか。

④引きこもり

世界との「つながり」がうまくいかない例として「痴呆」は課題に挙げられてきたが、若年層の「引きこもり」もまた、症状は違っていても、原因は同じなのではないか、と考察しています。

前章までの解釈を若年層の問題にも拡大した考察ですが、分量が少ないのと、少し強引なので飛ばします。

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最後に、全体を通しての感想を述べます。
本書はところどころ筆者の政治思想が入ってきますが、本筋と関係ないと感じたのでばっさりカットしました。

仏教用語だったり臨床例だったり、知識としては得るものが多かったのですが、内容がどうも主観的すぎる気がして、もういいかな…。

筆者の主張とは真逆になってしまいますが、いまの私は年長者の経験や知識に対して敬意を払うことはあっても、人格に対しては違うようです。

本日は以上です。読んでくださり、ありがとうございました。

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