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役割

エリス・ヤングの「ノンバイナリーがわかる本」、お盆休みを利用して読み終わりました。2か月ほど前に購入したように思うのですが、後から買った「侍女の物語」(The Handmaid's Tale、マーガレット・アトウッド)がとても良くて読了後に再度読み直していたのと、その続編の「誓願」(The Testaments)まで読み進んでいたのとで、しばらく机の上に放置状態となっていました。侍女の物語はHuluがドラマ化しているようなので、機会があればこちらも見てみようと思います。しかし、まさか何十年も前のディストピア小説と類似した社会の雰囲気を現実に感じる日が来るとは思ってもみませんでした。「現実に感じる日が来るとは」について、このような社会に陥りかけていることの一つの本質があると考えていますが、この本質については別の記事で書きたいと思います。

ノンバイナリーがわかる本については、日本でも正しい手法で統計をとるべきではないのかということと、家父長制はまさに自分を殺しかねないという印象を最初に持ちました。家父長制は侍女の物語の世界を支配しているものですし、例えば、ウクライナへの侵攻をきっかけに知ったのですが、ロシアにおいては「公的に存在が消されても構わないグループ」に私は含まれています。ロシア以外にもそのような国や制度は依然としてたくさん存在しますし、公的には問題視されない国、法的に保護されている国においても物理的や感情的な暴力に晒されうることは、この本に書いてあるとおりだと思います(日本でもTwitterなどのSNSを見れば感情的な暴力に溢れていることがわかります)。私のような状態であれば、危険を避けるために隠し続けることもそれほど苦痛ではないかもしれません。しかし、当然、皆がそうではありませんし、ごくシンプルに、そのようなことはあってはならないはずです。

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休みの間にジュラシックパークIIIを見ました。2001年の映画で、パートナーの女性(恐竜がとても好き)と一緒に劇場に見に行って面白かったねと言い合った映画です。その時のことはよく覚えています。しかし、昨日見た映画は、記憶とは違ってあまりにも酷くて2人で苦笑してしまいました。一言でいえば、外見や性別によるキャラクターの扱われ方が酷いのです。「ハゲ」や「デブ」は恐竜に食べられるキャラ(登場した段階で、この人は食べられるな…とうすうすわかる)、「女性」は大声で叫ぶなどして問題を引き起こすキャラ。思い返せば、別にこの映画に限らず、ほんの少し前までのハリウッド映画では、このような外見や性別による役割の設定は普通であったように思います。

およそ20年の間に感覚が変わっていることを実感しました。20年は、若い人にとっては長い時間でしょうが(その感じはよく覚えています)、社会の多数派を占める「若くない人」にとってはそこまで長い時間ではありません。このことが必要な変化が抑えられる原因の一つともなっているように思います。

変化の波は戻してはだめですよね。


私の役割は、時間を戻さないことだと最近思い始めています。


追記
トップの画像は、midjourneyに描かせた「夏の花畑に座る読書をしている人」の絵です。相変わらず顔がはっきりしていないのですが、割といい絵だと思います。無性別の単語(person)を使用したので、それが反映されているのでしょうか。無料体験分は使ってしまったので、課金するか検討中です。

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