評価のはなし
労働における五つの次元について、ドラッカー曰く
生理的な次元:人は毎日同じスピードとリズムで働けない
心理的な次元:労働は重荷であると同時に本性でもある
社会的な次元:人と社会をつなぐ絆であり位置づけ
経済的な次元:労働は生計の資であり基盤
政治的な次元:権力を得たり行使したりする
評価とは尺度のことで、その集団における基準となる。
評価の尺度が適切に配置されているとき、その絶対軸に沿って善悪が判断され、成果と失敗が判断され、昇進したり降格したりする。絶対的な神の視点などない中でなるべく中立的に、でも決して公平なものでなく、存在するフィードバックの基準。それが評価。
良い評価を得られたからと言ってわたしの生活が極端に豊かになることはないし、明日から別な世界が開かれるわけでもなく、それどころか翌日にはまた何事もなかったかのように新たな目標が提示され、昨日まで評価されていたことは忘れ去られ、新たに評価を得られるかどうかのレースに強制的に参加させられてしまう。
だがそれでもわたしは評価されたいと願う。どうしてだろうか?
評価されることは嬉しい。評価されれば一時でも高い収入が望める。一過性のものであっても積み重ねていけば昇格や昇進のように安定した高収入を見込めるきっかけにもなる。
でも、日々そんなに打算的に生きられない。目の前で道路を渡ろうとする足の不自由な老人を助けたって評価されることはない。多くの恵まれない子供のために多額の寄付をしたところで毎月の収入は加速度的に増加したりしない。落ちているゴミを拾って徳を積んだとして、いつか明確にリターンを感じられる瞬間はなかなかない。それでもやるのはなぜか?評価とは違う次元にアクセルがあってしまっては、評価されることに意味を見出せないのではないか。
まして他人を評価せよとしたときに、そんなことを決められないのではないか。
ハイデガーは良心の呼びかけこそが現存在を世人から切り離し、本来のわたしに引き戻してくれるという。では良心の呼びかけに応えてなおかつ評価されるものでなければ、仮に評価されたとして間違っているのだろうか。どうしてわたしは評価を求めるのか。どうしてわたしは評価を求めないといけないのだろうか。
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