信陽堂 丹治史彦さん、井上美佳さんのお話(5)
〈いとなみ〉のそばにーー 。そんな思いを大切に、これまで本をつくり続けてきた信陽堂の丹治さんと井上さん。
お仕事の根底には、「いまを生きる人がどういう場所で、どのように暮らしているのだろう」という関心が絶えずあったのだと言います。
衣食住の大半を自分たちの手でつくりだす時代から、必要なものはお金を稼いで購入することがあたりまえとなった現在、私たちにとっての〈いとなみ〉とは何なのか。そうしたことをあらためて問いかけ、ときに時空を超えて、さまざまな〈いとなみ〉に出会う機会を与えてくれるタイムカプセルのような存在。それが信陽堂が目指される「本」なのかもしれません。
最終回となる今回は、長年編集・出版に携わってこられた信陽堂のおふたりが考える「本」の可能性についてうかがいました。
煮炊きをする〈火〉とともに
『からむしを績む』から少し話を広げてみたいのですが、丹治さんのTwitterのトップに「いとなみのそばにある本をつくります」と書かれていますよね。信陽堂さんとして考える〈いとなみ〉についてお伺いできますか。
丹治 そこで言っている〈いとなみ〉は、人が暮らすということです。
それは、物を作りながら生活するということですか?
丹治 そうそう。私はよく、人間が文明を手にして生き始めてから、一瞬たりとも地球上から煮炊きをする〈火〉は消えたことがないんだなと感じています。つまり、地球のどこかでいつも誰かが火をおこして、自分のためだったり家族のためにごはんを作っている。それがもう何万年と続いている。それってすごいことだと思いませんか。
そんなふうに人が生きるために行っていることを〈いとなみ〉ととらえています。それはごはんを作ることであり、からむしのように植物を育てて糸を採って織物を作ることでもあり、家を建てるとか、住む場所を快適にするために少しずつ手を加えていくことでもあるでしょうし。そういうことの近くにある本を作りたいと思っています。
〈いとなみ〉のそばにという思いは、信陽堂を立ちあげる前から抱いてこられたことですか?
丹治 20年前に創った出版レーベルのアノニマ・スタジオは、「ごはんとくらし」というテーマで本づくりを行うと決めてスタートしたので、そういう意味では昔から変わらない思いです。
いまも「映画とごはんの会」というタイトルで民映研 *1 の映画を定期的に上映されていますよね。そうした活動も同じ思いからなのでしょうか。
丹治 そうですね。やはり、民映研の映画に記録されているものが人の〈いとなみ〉であるからです。2010年に信陽堂を立ち上げてしばらくして、民映研の方と知り合って。そのことをきっかけに、私たちも上映会を行うようになりました。『からむしと麻』*2 以外の民映研の作品をご覧になったことはありますか?
『からむしと麻』以外は、まだ観たことがありません。
丹治 面白いものがたくさんあるので、機会があればぜひご覧になってください。
〈いとなみ〉への注目ということに関連して思い出したのですが、第1回の冒頭で名前を挙げたエフスタイルについて、美術作家の永井宏さん(1951-2011)が、「あなたたちのやっていることは民俗学でもあるんだよ」と言ったことがありました。それまで彼女たちは、自分たちの活動の芯にある思いをうまく言語化できずにいたそうですが、「民俗学」と言われてハッと気がついたことがあったそうです。
「民俗学」という言葉に永井さんが託されたのは、人の暮らしや仕事を漫然と見るのではなく、伝承していくような視点で見ようとする姿勢と理解してよいでしょう。彼女たちの活動はまさにそういうことではないかと、私たちも思っています。実際エフスタイルは、ただ作り手を訪ねて仕事の打ち合わせをするだけでなく、たとえば、ものづくりの過程を調査し写真を撮る、話を聞いてメモを取るなど、作り手たちが行っていることをきちんと記録することを含めた仕事を手がけています。
ちなみに、アノニマ・スタジオが始まったのは2003年なのですが、前年の2002年にスタートした雑誌にマガジンハウスの『クウネル』 *3 がありました。一般には「丁寧な暮らし」を提案していた雑誌と思われているかもしれませんが、僕が考えるには、『クウネル』がやっていたことは、2000年代初頭の人々の暮らしの「民俗学」的リサーチだったと言えるのではないかと思います。アノニマ・スタジオも、言葉として「民俗学をやろう」とは言っていなかったけれど、「いまを生きる人がどういう場所で、どのように暮らしているのだろう」ということへの関心が活動の根底にありました。それがいまだに続いているような感覚です。
エフスタイルさん、三谷龍二さん、永井宏さんなど、ものづくりに携わる方たちの本を多く手がけられていますが、そうした人たちの言葉を届けること自体が民俗学的というか、〈いとなみ〉に触れる感じなのでしょうか?
丹治:いまお名前をあげてくださった方々のほかに、もうひとり大切に思っている人がいます。早川ユミさん *4 です。アノニマ・スタジオ時代に何冊か本を手がけているのですが、早川さんはしばしば、「少しずつでも生産者でありたい」という表現をされるんですね。「生産者」というのは、農作物の生産についてだけでなく、暮らし全般において。都市部で暮らしていると100%消費者になってしまいがちじゃないですか。
コンビニや100均ショップにいけば、便利なモノがすぐに、安価に手に入る。お味噌でも梅干でも、自分で作ってみるとどれだけ手間と時間がかかるのかがわかります。その大変さも、出来上がったときのよろこびもわかる。それを知った上で「これは自分で作るより買った方がいい」と思うなら、おのずとそれに見合う価格もわかりますよね。仮にそれが100円で買えるのであれば、どこかで誰かにシワ寄せがいっているかもしれない。そこに思いいたることは、世の中のしくみを考えることにもつながります。
早川さんがおっしゃりたいことは、消費するだけの立ち位置から、わずかでも自分の手を使って何かを作りだす暮らしへとシフトして、お金を払って物を買う生活から離れていくことじゃないかと。信陽堂として活動するいまも興味をよせるのは、そういうことを少しずつでもやろうとしている、あるいはすでに実践されてきた人たちです。
『からむしを績む』に登場するおばあさんの姿やそこで描かれる風景もまた〈いとなみ〉ですよね。それは、都市部で暮らす人たちにとっても、本を通して出会うことができ、それぞれに想像することができるものでもあるんだろうなあと。少なくとも、私にとっては、村に生きる女性たちのそうした〈いとなみ〉を留めた存在として、本を手に取ったとき、とてもありがたいと感じました。
丹治 いま美咲さんがおっしゃったことは、『からむしを績む』という本の本質に触れていると思います。前にも言いましたように、これはからむしの歴史や、布ができるまでの工程を説明する本ではありません。そうではなく、「どんな環境の中でどんな人たちが、どういう家や風景の中で〈いとなみ〉を紡いできたかを伝えたい」という思いのもとに企画された本です。ですから、それが伝わっているとしたら、この本づくりの目標はある程度は達成できたのではないでしょうか。
「いとなみのそばにある本」がどういうものかわかった気がします。そして、本という存在の大事さを思いました。最後の質問になりますが、あらためて信陽堂さんとして本づくりを行う中で大切にされていることをお聞かせください。
井上 『からむしを績む』もそうですけれど、本には何よりも「物」としての魅力があるので、これからも残したいし、残っていくものだと感じています。現実的には、電子書籍で済むものもあると思いますし、紙の本は資源もたくさん使うので、だんだん貴重になっていくのかもしれませんが。そうした状況の中で、読者の方から残すべきと思ってもらえる本を残すべき形で作らないといけないということは、いつも念頭に考えながら活動しています。
丹治 本というものは、一度形になると百年でも二百年でも残り続ける物ですよね。何千部か作られたとしたら、そのうちの9割がどこかのタイミングで捨てられたりゴミになってしまったとしても、完全にゼロにはならないと思っています。そうすると本を書いた人の命よりも、本を作った私たちの命よりも、生み出された本のほうが遥か先まで、形として残る可能性があります。
たとえば二百年後に、永井宏さんの本を手に取った人がいるとします。そのときはもう生活スタイルも価値観も、いまとは全く違っている可能性が高いでしょう。もしかすると、日本語という言語すら読めない世界になっているかもしれません。でも、そういう中で、物質としての本の佇まいに促されて頁をめくり、どうにか永井さんの言葉を読んで、一行でもその人の心に響くものがあったとしたら。時間を越えてなお、同じような悩みやよろこびを分かちあうことで、未来の誰かを励ますことができるかもしれない。
それは本というものにしかできない。というと買い被りすぎかもしれませんが、実際に私たちも、遥か昔に死んでしまった人たちの言葉にたくさん励まされ、生きる希望をもらいながらいまを生きていますよね。大変おこがましいのですが、そんなふうに、自分たちが得た栄養を同じようにつぎの誰かに伝えることができたらいいなと思いながら、これからも本を作り続けたいと思っています。
* * *
信陽堂さんが企画者としてこれまで手がけられた本の巻末には、かならずひとつの ”ことづて” が記されています。
” 背中をそっと温める手のぬくもり
遠くからあなたを見守る眼差し
いつもはげましてくれる友だちの言葉
小さな声でしか伝えられないこと
本とは
人のいとなみからあふれた何ごとかを
はこぶための器 ”
からむしのいとなみに寄りそう存在として企画された本づくり『からむしを績む』。この物語もまた、ひとつの歌によって締めくくられています。
” これな、裏さ歌が書いてあったの。それを調べてくれたひとがあってな。
なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな
しっぽから読んでも同じ、頭から読んでも同じ。
長き夜の 遠の睡りの 皆目覚め 波乗り舟の 音の良きかな ”
(『からむしを績む』より)
「本」は、人のいとなみと大切な想いを守り届けるための器であり、時間という大きな波を越えて旅をする舟でもあるのかもしれない。人生という道に迷ったときの灯火として、持ち主の傍にいつも在り続けてくれる存在なのだ。と、丹治史彦さんと井上美佳さんにうかがったお話から思いいたりました。
あたりまえの日常があたりまえではなかったことに気がつかされた三年間がありました。ようやく少しずつもとの日常へ戻ろうとする中、「平和」が足元から揺らぎかねない、新たな危うさが私たちを取りまいています。そんな時代の只中で、信陽堂さんによる「いとなみのそばにある」本づくりは、ひと筋の光なのだと、私は読者のひとりとして感じています。
取材を行ってからはや三ヶ月半が過ぎました。この間、「読み物」としての在り方を模索し続ける私に、信陽堂さんとして考える本づくりへの想いを軸に、幾つもの大切なことを惜しみなく共有していただきました。本当にありがとうございました。
*
信陽堂さん篇は第5回で完結となりますが、シリーズ【インタビュー|からむしを績む】の連載はまだまだ続きます。今回、丹治さん、井上さんにうかがったお話と『からむしを績む』を手がかりに、引き続き、からむしや昭和村のいとなみが私たちに伝えてくれることを探っていきたいと思います。
シリーズ【インタビュー|からむしを績む】
信陽堂 丹治史彦さん、井上美佳さんのお話(5)〈完〉
写真提供:信陽堂
聞き手:髙橋 美咲
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