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幸せをありがとう 10年前に出会った高橋さん(仮名)とのお話

中学生の時に、隣の県の農村地域に民泊をするという機会があった。
4~5人が一組となり受け入れてくださるご家庭に泊まって、農業体験をしたり、仕事のお手伝いをしたり。
わたしの班は女子四人。その中の一人がすごく縁のある友だちで家族ぐるみの付き合いがあった。ここでは彼女をはなちゃんとしよう。


わたしたちを受け入れてくださったご家庭を、仮に高橋さんとする。
泊まりに行く前に、写真付きのはがきが班員に配られた。そこには、お父さんとお母さんの写真と、「みなさんと会えることを楽しみにしています」というようなコメントが印刷されていた。
高橋さんの家は、お父さん、お母さん、成人している息子さんと娘さん、娘の子どもたち三人。わたしたちからしたら、高橋さんご夫婦は少し若めのおじいちゃんおばあちゃんで、息子さんと娘さんは少し年の離れた兄姉のようだった。
はがきを見ながら、まだ会ったことのない高橋さんとそのご家族を想像して、優しい人だったらいいなあ、怖い人じゃないといいなあ、と不安と期待の入り交じる思いを膨らませていた。

バスで隣の県まで行き、それぞれのご家庭がそこまで車で迎えに来てくれていた。
高橋さんは、毎年何人もの中学生を受け入れており、緊張するわたしたちに対しても慣れているよう。気さくに声をかけてくれて、温かく迎え入れてくれた。「怖い人じゃないといいなあ」という不安は、会えばもうすっかりなくなっていた。
とても暖かいご家庭で、わたしたちが来ることをとても楽しみにしていてくれたし、わたしたちが普段できないような経験をたくさんさせてあげようとたくさん準備してくださっていた。



ちょうど「こどもの日」が近い時期だったこともあり、高橋さんの家の庭には、大きな鯉のぼりを上がっていた。大きな鯉のぼりはイメージできるけれど、実際にはなかなか見ないし、上げるにしても立地や環境の条件が整わなければ難しい。大きな大きな鯉のぼりは、風が吹くと大空を泳ぎ出し、とても迫力があった。
高橋さんはブルドーザーのような(重機について詳しくないので今となっては何かよくわからないのだが)重機にわたしたちを乗せて、高く上がる鯉のぼりの近くまでわたしたちを持ち上げてくれた。けっこうスリリングだが、人生に二度とない経験、あのスリル感と、恐怖感、でもブランコでもっともっと高く!と思っていた気持ちが叶ったような解放感が忘れられない。
ただ、その体験は「危険だ」という保護者からか誰かからかの意見があったのか、後日高橋さんから送られてきた写真の中には、ブルドーザーに乗って「キャー!」といい顔をして写っている写真は、入っていなかった。いい経験だったのに、少し残念な気持ちもある。もしかしたら、この経験をできたのはわたしたちが最後だったのかもしれない。
確かに、傍から見たら危なかったかもしれない。でも、高橋さんたちは中学生がこの経験を喜ぶことを知っていたのだ。だから、やってくれていたという事が、わたしにはわかる。いい体験だったなあと思う。

毎年何人もの中学生を受け入れていて、その度に最善を尽くしてもてなし、家族のように接しているのだろう。会ったこともない中学生たちを何人も受け入れる懐の深さを思うと、本当にすごいと思うし、有難い。わたしには、できるだろうか。あれほどまでに温かく、楽しみに受け入れることができるだろうか。

一泊だったか、二泊だったか、覚えていないけれど、
短い時間の中で普段体験できないことを自然の中でたくさん体験させてもらった。
本当のおじいちゃんおばあちゃんの家のように温かかった。

帰る時、わたしは涙が出た。
もともと別れとか終わりとかいうものに対する感受性が過敏で、好きなドラマの最終回で物語の感動以上に号泣したり、好きな小説を読み終わることに大きな絶望感を味わったりしてきた。
なぜみんなが「ありがとうございました」という一言で分かれられるのかがわからないくらいに、わたしは悲しかった。
その年の成績表のコメント欄に、担任の先生から「民泊の時の別れの場面で涙を流していたのが印象的でした」というようなコメントが書かれるほど、わたしは泣いていたし、悲しんでいたのだ。
高橋さんはそんなわたしに、もちろん「また来てね」と言ってくれた。
「また来てね」は社交辞令だということももちろん理解できるくらいの中学生ではあった。だからと言って、その言葉は社交辞令の塊ではなく、本当にそう思っていてくれているという事もじんわりと伝わってくる。と同時に、今までも何人もの中学生に「また来てね」と言ってきていて、本当にまた来ることはないこともわかっている、という感じに切なさもあった。

高橋さんの「また来てね」は、基本的には別れの際の社交辞令であった。
しかし、わたしはその後本当にプライベートで高橋さんの家に行く。
はなちゃんと二人で、電車を乗り継いで高橋さんの家へ。



高橋さんの家の最寄り駅で待ち合わせをする。最寄り駅といっても、田舎も田舎、なので車がないと家までは行けない。
高橋さんは待ち合わせ場所まで迎えに来てくれた。
「「また来てね」とは毎回言っている。でも、本当に来た子は初めてだな!」と、おかしそうに、でも本当に嬉しそうに言ってくれた。
そのままガラス工房のようなところに連れて行ってくれた。そこでは、わたしとはなちゃんの誕生日が刻まれているクマのガラス細工を買ってプレゼントしてくれた。実は、わたしとはなちゃんは偶然にも同じ誕生日なのである。
また行っても歓迎してくれるだろうという思いはあったが、やっぱり行ったら迷惑なんじゃないだろうかという迷いもなくはなかった。しかし、再会してそうそうにわたしたちの誕生日が刻まれたガラス細工をプレゼントしてくれたことで、わたしは高橋さんが本当に心からわたしたちを歓迎してくれているということが分かった。安心もしたし、本当に嬉しかった、温かかった、有難かった。
帰りは、わたしとはなちゃんの自宅まで車で送ってくれた。決して近い距離ではなかったし、車には当時小学生の子どもたちも乗せていて帰るころには夜も遅い。「この子たち明日の朝起きられるかな」とわたしは心配になったが、最後の最後まで「来てくれてありがとう」という気持ちが伝わってきて、嬉しくもあった。

あれから10年ほどの月日が経ち、わたしもはなちゃんもそれぞれ高校生にもなり、大学生にもなり、今社会人を目の前にしている。
そんな時に高橋さんからわたしとはなちゃんそれぞれに新米が届いた。


コロナ禍もあり、民泊の受け入れができない時期もあったそう。
そして、今年で中学生の受け入れは最後だという。
だから、住所がわかる子に新米を送っているのだという。



高橋さんにお礼の電話をした。

「もしもし、高橋さんですか」
「おお、〇〇か」
こちらが名乗る前に、高橋さんはわたしからの電話であることを知っていた。という事は、電話帳にわたしの電話番号がわたしの名前で、今もまだ登録されているということ。わざわざ消すこともないだろうから当たり前かもしれないけれど、そんな小さなことが嬉しかった。

「わざわざ新米送ってくださってありがとうございます。すごく嬉しかったです」
「いやいや、生きてるかなって思ってね。今年でうちも受け入れを辞めるし、二回も来てくれた子は他にいなかったしね。もう10年経つのか、何歳になったんだ?」
「23歳になりました」
「10年も経ってるからもうすっかり大人になったなあ」


そんなことをしみじみと電話越しで話した。
何年も会っていないし、連絡も取ることはなかった。
それでも、こうやって月日が経ってもわたしのことを覚えていて、気にかけてくれて、可愛がってくれているという事が、何にも代えがたい豊かな経験であると思った。

「また来てね」

高橋さんは最後にそう言った。
10年前、帰るのが悲しくて泣いていたわたしに言ったときよりも、期待が強くこもった言葉だった。


何年もやっていて、「また来てね」と言って本当に来た子は他にいなかった。
わたしとはなちゃんが最初で最後の「また来てね」と言って本当に「また来た子」になった。
それが、高橋さんは本当に嬉しかったのだろう。
10年ぶりの電話越しの「また来てね」は、もう社交辞令なんかではなかった。


人との出会いを大切にしよう、と改めて思った。
10年という月日は決して短くはない。
その間に会わないという事は、今生の別れであってもおかしくないのに、
またこうして「また来てね」と言われるとは。
なんと有難いことか。
「また来てね」という言葉を真に受けてまた会いに行った過去のわたしに、
大きな大きな花丸をあげたい。
そして何よりも、わたしをいつまでも気にかけてくれる高橋さんに、心からお礼を言いたい。


人の温かさに触れること、そしてそれを有難いと思うこと、
これが、私の求めている幸せであり、豊かさなのだと改めて感じた。
きっとこのように、長い年月をかけて、熟成させて、大きな幸せを生むことがあるのだ、豊かに実ることもあるのだ、と思った。

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