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必要な言葉には、必要としているときに出会える


自分のやりたいことをしたい。
思考停止で誰かが決めた道をたどるのではなく、自分でちゃんと考えたい。
考えたうえで、新しいことを、自分の力が生かせることを、
楽しめることしたい。

自分のやりたいことは、何だろうか。大学生の頃、私はその問いに対して一切の妥協も許さなかったことを思い出した。誰に強いられたわけでもないのに、愚直なまで問い続け、ずっと考えていた、これまでの自分の生き方や、社会の在り方に対して違和感を感じた部分をひとつずつ摘まみ上げて、それはなぜなのか?考えては答えを出し、私はどうしたいのかをただひたすらに考えた。ずっとずっと、納得できる生き方を探していた。考えた結果、自分には決定的な何かが足りない気がした。だから、大学を卒業してから自力で外国に住む、という手立てをとった。そうすることで、自分の人生を切り開く必要があった。それは「切り開きたい」なんて能動的な、明るく聞こえがいい表現は似合わないもので、私は「切り開く必要があった」ただそれだけだった。自分には決定的に、世界を生き抜く力が足りないと思っていた、それは経済力とかマイクロソフトの処理能力とかビジネスでの交渉力とか、そういう大それたものじゃなくて、どんな世界でも「こんなもんか」って、そう受け流して生きていける心の広さと、わだかまりのなさと、柔軟さをもつことだった。今だからわかる、今だからそう思うし、今だからそう言語化できる。だって海外に向かった当時の私は、自分に何が足りないのかなんて分析できるほどの、そもそもの武装を備えていなかったから。


今の私は、やりたいことをやれているのか?


愚直なまで自分に問い続けた、一切のごまかしも許さなかったその問いに対し、今の私は簡単にNOと言えてしまうのではないか、とハッとした。ハッとしてすぐに、「いやでも今の仕事は…」なんて、言い訳がましく言葉を繋げるところまで、もはやスムーズに板についていた、セットになってしまっていた。現状に対する不満と、それを誤魔化す曖昧な言い訳。

別にいいと思うんです、それ。己のやりたいことをやれ!なんて、岡本太郎大先生のような熱量の人ばかりいたら、それはそれで息苦しいですし、何より世界を生きる人がそれぞれの価値観に照らし合わせて、幸せだって思えているならそれでいい。それでいいんです。

じゃあ私にとっての幸せは、何だろうか。多忙こそが美徳で、でもブラック企業はダサいから、土日出社まではしないけど月平均30~多い時は50時間くらい残業することだろうか。日々を謀殺する会議で毎度資料を綺麗に整え、前日にメール展開することだろうか。それ故に毎日残業が発生して、疲弊した体で最寄りのスーパーでお惣菜を買うことだろうか。インクルーシブのイの字もないような飲み会で、でも「これセクハラになるのかな(笑)」なんて多少わかったふりをしながらネタとして楽しむ輪に身を投じることだろうか。

改めて考えると、いや、考えるまでもなく、これは私が思う「幸せ」ではないと思った。脳の、感情を処理する部分でそう感じている、直感的に(脳の中で、感情と言語を処理する部分は違うそうですね)。もちろん仕事では新しい部署に配属されたし、そこではやりたかった仕事ができている。日々学ぶこともたくさんある。そもそもそれなりの人数がいる会社で総合職として入社したのは、いわゆるサラリーマンライフを一度はしてみたかったからだ。長い人生、人生ゲームのマス目の中で、そういう時期があってもいいよね、と思ったくらいのノリだった。気が付けば、私はそのマスの中で停滞している。そのマスの中で確かに学びを蓄積しながら、ではあるけれど。そういう時期だからって、最初から心づもりした上ではあったけれど。でも、ふと振り返らなければ、こうして鋏を入れなければ、もしかすると気が付かなかったかもしれない。そう思うと、すこしだけ怖くなった。あんなに新鮮に物事を捉え、いきいきとした視点を持っていた私が、気づかないうちに死んでいたのかもしれない、なんて思って。

鋏を入れてくれたのは、入社前にアルバイトをしていた会社の社長だった。そこは、私にとって最高の職場だった。入社前のニート期間で、暇だからバイトしようかな、なんて軽い気持ちで見つけた求人だったけど、それが運命だったと思う、本当に思う。

その社長から久しぶりに言葉をもらったとき、ああ、私にとって大切にしたいものはこういうものだ、と急速に思った。成長とともに環境になじみ、そのエッセンスを受け取り、得たものと共に澱んでしまった私、擦り切れてしまった私。埋もれていた自分の芯が、彼女の言葉で克明にあぶり出た。あぶり出た瞬間、思わず涙がこぼれていた。


今の職場で、私はよくぐずぐずする。色んな人が、色んな先輩が、入社間もない私を思って、「指導のため」「成長のため」にご意見をくれる。みんな色んなやり方がある、だから、それをすべて真に受けると前に進まなくなってしまう。そこに自分の意志は、多分消えている。どうでもよくなってしまうのだ、いつも、仕事は割り振られるもので、常に私の思いとはどこか切り離されていて、そんな態度だから人が言うやり方で進めればいいと思っている、答えがある人の答えを聞いて、その通りにやればいいと思っている。なぜ?説得するだけ、疲れるから?自分の意思をもって出したものを、否定されると悲しいから?じゃあ、過去の自分はどうだった?自分の人生を切りひらく旅に出るとき、私は、あらゆるものに自分の意思を込めていたはずだ。それは私自分の人生だから(ありがたいことに)余計な口を出す人はいなかったけれど、もしそんな人がいたとしたら、今の私であれば物理的に言い返すかはわからないけれど、当時の自分ならきっと言い返していたはずだ、自分の意思を、主張を、その決断に至るまでにたどった背景を、きちんと言語化できたはずだし、口から出まかせの意見に打たれてたまるかって、そう思って声に出していたはずだ。そこには考え抜いた先の、自分の確かな芯があったはずだ。

今の私にはなかったものを、私はようやく思い出せました。

今の私に軸がなくてブレブレなのは、私の軸とは全然ベクトルの異なる人たちに囲まれて、忘れてしまったから、洗脳されかけているから、今の自分の周りに、大切にしたいと思える価値観がないから、信頼出来て、この人なら心から頼りになる、と思える人の存在がいないからだ。いろんな大人が意見を吹き込んでくれる環境にある今、私は、そのすべてを受け止める必要はないのかもしれない。耳は傾けつつも、すべて鵜呑みにする必要はない。信頼できて、自分にとって大切だと思えるものを大切にしているような、そんな人の意見をものを持っている人の意見を尊重しよう。そして、そういう人たちの生き方を、真似したい。

INFPTの私は、多くの人から話を聞き、そこから生まれた自分の意思や考えを、少ない人に対して話すだろう。Gallup診断で「適応性」が強みと言われた私は、どんな状況でも楽しもうと努力したり、比較的器用に順応できたりするタイプなんだろう。私はそれらを活用して、入社してから色んな人の話に耳を傾け、環境に順応してきた。でもそれを、そろそろ自分のために利用してもいいのかもしれない。会社に割り振られた仕事の中で、自分の強みと弱みを徐々に、でも確実に見出してきた、だからこそ、搾取されると感じる前に先手を打てるようにしておきたい。私自身が、強みを何に使いたいか?どういうふうに活かしたいか?もっともっと、自分のために、考えてみてもいいかもしれない。今がきっと、そのタイミングだ。私は過去の私とは異なる人間だけど、それでも変わらない要素は必ずあって、必ず何かのタイミングでそこに立ち返ることができるはず。そう思って、少しだけ安心して、勇気が出た。なんだか前向きに生きられそうな気がした。かつての私が、穴が開くほど内省を重ね、常に自分ファーストであったように。




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