#多様性を考える、という文字列が存在し続ける限りこの世は多様な社会にならない

「多様性」という言葉が視界に入る度に心の奥底に生ぬるいモヤが掛かったような気持ちがする。

「多様性を認める」「多様性を容認する」などという言葉が普通に心底嫌いだからかもしれない。私は度々この件について持論を展開しているが、多様性とはただそこに存在するものであり、認めたり容認したりするものではない。

そもそも、「認める」だの「容認する」などという言葉はどこからやってきて社会に浸透してしまったのだろう。この件についていつも、なんで上から目線やねん、と思ってきた。

だっておかしいと思わないか。「認める」で辞書を引くと、「正しいとして、また、かまわないとして受け入れる。」という項目がある。正しいって何?辞書で引くと「道理にかなっている。事実に合っている。正確である。」と出る。かまわないって何?辞書で引くと「差し支えない。気にしない。」受け入れるって何?辞書で引くと「人や物を迎え入れたり、引き取ったりする。」「人の意見や要求などを認める。」と出る。なお、容認で引くと「よいとして認め許すこと。認容。」と出る。

なんなんだよ、って思う。なんで全部が全部、元々は正しくないとされていた、という前提でものが言われているんだ。正しいも何も、最初からそれは存在していたんだよ。それを、何を今さら…。どう考えても上から目線だとしか思えない。

下から目線の人たちの気持ちを考えたことがあるのだろうか。「あなたの存在を正しいとして受け入れます。」なんてある日突然言われたら、それまでの自分がまるで全部正しくなかったみたいになってしまうじゃないか。そんなことってあっていいのかよ。それこそが差別じゃあないのかよ。

多様性という言葉を辞書で引くと「いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと。」出る。うん。こんなのは当たり前のことだ。わざわざあれこれ言わずとも、最初からあって当然のものだった。それを今さら、存在を認識しました、そして、それは存在していても正しいですよ、なんていう風なことを言われても…。

私は、自分の人生の途中から「社会的弱者」と位置付けられる存在になって気付いたことが一つある。それは、自分のことを社会的弱者とは認識していない、ということである。

私は「私」である。生まれてから今までずっと、その事実は変わることがない。普通に健康に生きてきた28歳までと、病気になってから健気に生きてきた33歳まで。どちらの状態にあろうとも、私というものはずっと私のままだった。

きっと28歳の私は「あなたは多様性のある社会に存在していて正しいですよ、認めますよ。」とは言われなかったはずだ。なぜならその頃の私という存在は、社会に存在していて当たり前のものだったから。わざわざ正しいとか正しくないとか、言及するまでもないことだったから。

ところが今の私はきっと「あなたは多様性のある社会に存在していて正しいですよ、認めますよ。」と言われてしまうだろう。正しいって言われても…。認めるって言われても…??私という存在は最初から正しかったのに?認めるもなにも、ただ漠然とこの世には生まれ落ちてから今まで、生きてきたのに…?そこに私の意思など介在しなかったのに…?認められていなければ、今までの私はこの世を生きて来なかっったのだろうか…?

こんなぐるぐるが頭の中と心の中で急回転するから、「多様性」という文字列にざわざわしてしまうんだと思う。

「多様性」という言葉を目にする度にいつも思う。自然の風景を見て、わざわざ「多様性があるなぁ、これは正しいことであるなぁ」などと人は思うのだろうか。まあ、いろんな種類の植物があるもんだなぁ、などと思うことはもちろんあるだろうけど、ただ癒やされたり、気持ちいいなと思ったりすることだってあるだろう。多様性とはそういうものなのだ。ただそこにあって当たり前のこと。わざわざ頭をひねって良いだの悪いだの正しいだの間違いだの認めるだの認めないだの言うことではない。

もしも「多様性を考える」ということをするならば、私はそれがただそこに在ることを欲する。

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