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キツいけど、考えることはやめない。

秋田に二日間行ってきた。初日のフライトで秋田空港に着陸するときに電波が届いて、最初に目に飛び込んだのが、安倍晋三元総理銃撃の一報。そして現地のアートセンターで一仕事終えた夕方、そこのスタッフたちから「亡くなったそうです」と。そのまま周辺の千秋公園のお堀をぐるぐる回りながら、なんとも言えない気分になった。

個人がその人にしかわからないような、他者にはなかなか理解されにくいような生育背景、当事者性、そこから生じる社会に対する問題意識。これらを抱えるとき、それでもその問いを他者に開いていく方法のひとつに言論や表現と呼ばれるものがあるだろう。

言論という形でその問いを、あるいはその問いの裏側に濃厚にへばりつく怒りや戸惑いや不安を言語化する。なんとか意味を紡ぎ出し発信する。共感が生まれることもあれば、真っ向から敵対する感情が生まれることもあるだろう。

一方で、意味のレベルに落とし込めないような状況で、でもただ感情を吐き出すだけでも埒があかず、感性を研ぎ澄まし、身体を動かしてみる。音楽、美術、映画、写真、詩、演劇、ダンス……などの芸術という表現において、僕らはえもいわれぬ問いや感情が生まれるその背景を他者と感覚的に共有しようと努めるし、その実践の積み重ねで、「こういった超個人的な感覚を共有できるプラットフォームがこの社会に少しは存在するんだよ」ってことを伝えてゆく。

言論や芸術などの表現。でもそのどちらも難しく、誰にも分かち合えないという絶望、あるいは一人で自分を完全に閉じ切ることでのみブーストされる動機が向かう先に、「暴力という名のもう一つの表現」がもたらされるとしたら、私たちはその構造的な背景にどのように迫ってゆけばいいのだろう。

誰かと何かしらの方法で、他者には理解されないかもしれない、ヒかれたり、拒否されるかもしれないことであっても、とりあえず誰かと話せるという安心感。友達や仲間、あるいは家族という存在がいることなどは思いつくが、そうでなくとも、困りすぎて役所や警察に行ったら選択肢のひとつやふたつは出してくれるだろうとか、政治に訴えればちょっとでも反応してくれるかもとか、司法に訴えれば他では何も動かなかったことに少しは風穴を開けられるかもしれないとか。親密さが前提のネットワークでも、公共サービスでもなく、その間を担うような相談支援の民間セクターも含めて、とにかく「受け止めてくれるかもしれない希望」がほんの少しでも社会に担保されていると思える実感があればいい。でも、実際、いまの世の中、そうなっているかな。って、表気活動を介していろんな現場、とりわけ社会的弱者と言われる人たちの現場に携わるとそういう疑問が沸々と湧いてくる。そして、僕がそこそこ政治に関心を持ち始めた高校時代、具体的にはバブル崩壊後90年半ば以降のこの失われた30年と言われる日本の政治は、安倍政治を象徴に、人々に対してこの「受け止めてくれるかもしれない希望」をこれでもかと奪い続ける政治だったのではないかと思う。

現在流れてくる情報のみに頼れば、容疑者はイデオロギーの問題意識からでなく、かなり個人的な生育背景が理由にあり、かつ必ずしも安倍さん個人に対する恨みでもない動機から実行に移しているよう。しかし、イデオロギーの問題に回収されない超個人的な動機のほうが、この社会の分断具合はより際立つ。つまりイデオロギーを介して誰かと連帯したなかで生まれる暴力には多少の理解や共感が及びやすいが、もはや連帯も何もなくただただ一人一人の個人がてんでバラバラに分断されているゆえに、誰からも想像できないような個別すぎる理由から立ち上がる暴力が、そのまま政治史に名を残すような大事件へと一っ飛びにつながってしまうということ。そしてこの一っ飛びな感じこそが安倍政治が生んできた、受け止めてくれる相手なんて誰もいないかもしれない絶望、こんな問題意識なんて結局個人の問題として矮小化されなかったことにされるんだという無気力による「徹底的な分断」だったのではないか。まだ情報が少ないなかでの仮定の話ではあるけど、そんなことを思う。

だからと言って、殺してはならない。暴力という表現がこうやってリアルに表出するのはヤバい。そしてそもそも安倍さんだけが悪いのではない。言わずもがな安倍さんの政治を良しとして担ぎ上げてきたのは私たち国民なんだから。僕は個人的には自民党に票はいれたことないけど!それでもやっぱりどこかでこの空気に加担してきたのかもしれない。

強い者がルールを決め弱い者が弾き出されて連帯する気すら失せる状況で、少しでも声をあげれば自己責任と言われかねず、時にヘイトという暴力まで罷り通るなかで、本来勇気なんてなくたって当たり前に発言してもいいことを、なぜか決死の勇気を求められて発言してようやくようやく政策にまでこぎつけるような、そこまで他者に対する無関心さが極まる社会が生まれてきたこと。時に政権と官僚が一体になって都合が悪いことは揉み消し、時に司法まで都合よく取り込んではすべての牽制力を手中におさめて強大化する権力のさなかで、決して同情という思考停止だけに陥ってはならないはずだ。考えないと。そして各々の立場で、生活のなかでより深く厚みをもって実践するしかない。

はっきり言って、選挙自体、個人的には延期したらいいと思う。こんなこと書きながらもこの事態だと思考停止になるのもしかたないと思うし、それくらいの事態。感情レベルの再調整を経て、少し時間を置いて本当は選挙を迎えられればいいけど、難しいかな。ご冥福を祈り、哀悼の意を捧げながらも、でもぐっと冷静になりたい。

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