『Re:ゼロから始める異世界生活』から見る「ライトノベル」の想像力
長月達平による『Re:ゼロから始める異世界生活』(KADOKAWA)は、『鬼滅の刃』や『新世紀エヴァンゲリオン』(シン・エヴァ)と同様に、優良なコンテンツだ。
この「小説家になろう」「カクヨム」系の代表的とも言える作品における、現代の想像力とは一体何か。
物語の大筋はこのようなものだ。
異世界召喚された引きこもりの主人公・スバルは、自身に「死に戻り」の能力があることに気が付く。他に特殊な魔法を使える訳ではないスバルは、ハーフエルフのエミリアを守るために、この時間の反復を利用して、ループの中で得た様々な情報の断片から世界を正しい道に導くことを決意する。「死に戻り」のセーブ地点は一定の苦難を乗り越えると更新する。
物語の目的は二つあり、一つ目はエミリアを王選に勝利させること。二つ目は七つの大罪に準えた魔女教という脅威との対決である。
鬼族のメイド姉妹レムとラム、他の王選候補者たちや周囲の魅力的なキャラクターも人気を博している要因だ。
物語の第一章、第二章、第三章は(アニメ第一期)は、異世界ファンタジーに相応しい、「怠惰」の魔女教ペテルギウスとの対決や、怪獣の「白鯨討伐」を描いた冒険活劇だ。
言わずもがなこれは、
●『時をかける少女』(1967・筒井康隆)『All You Need Is Kill』(2004・桜坂洋)のタイムリープ=「ゲーム的リアリズム」
●『Kanon』(1999)『AIR』(2000)=「美少女ゲーム」「セカイ系」
●『異世界の勇者』(1981・高千穂遙)『ゼロの使い魔』(2004・ヤマグチノボル)=「異世界ファンタジー」
のミクスチャー的な作品だ。
これらは、東浩紀が『動物化するポストモダン2・ゲーム的リアリズムの誕生』で指摘し、ポストモダン以降のオタクの動物化の「ゲーム的リアリズム」の小説の残滓が未だに停滞し、宇野常寛がその後に論を進めた『母性のデュストピア』以降まで未発達なことを意味するのか。
2000年代前後のメタ的構造の消費、あるいは失われた20年の「国家という共同幻想」の後退の末の「ネットワーク上のデータベースに無数に発生する共同幻想(物語)から、信じたいものだけを抽出するポスト・トゥルース的な態度」(1)における矮小化された父親と、母性のディストピアの永続なのか。
私はそうは考えない。
宇野はかつて貧しい現実より、虚構(アニメ・サブカルチャー)を語ることこそが意味があり、その戦後サブカルチャーの語り直しを提示した。それはナウシカであり、シャアなのだ、と。(2)
しかし、その「虚構」を「虚構」たらしめる共同幻想の強固さの本質には触れずに終わる。いや、データベース消費の物語という言葉に還元しているに過ぎない。
だが、この『リゼロ』から見えてくるのは、まさに2022年に我々が見ている戦後サブカルチャーの新しい想像力なのだ。
『遠野物語』の一話にこのような説話がある。(3)
「九七 飯豊の菊池松之丞と云ふ人傷寒を病み、度々息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛上り、凡そ人の頭ほどの所を次第に前下りに行き、又少し力を入るれば昇ること始めの如し。何とも言はれず快し。寺の門に近づくに人群集せり。何故ならんと訝りつゝ門を入れば、紅の芥子の花咲満ち、見渡す限も知らず。いよ〻心持よし。この花の間に亡くなりし父立てり。お前も来たかと云ふ。これに何か返事をしながら猶行くに、以前失ひたる男の子居りて、トッチャお前も来たかと云ふ。お前はこゝに居たのかと言ひつゝ近よらんとすれば、今来てはいけないと云ふ。此時門の辺にて騒がしく我名を喚ぶ者ありて、うるさきこと限りなれど、拠なければ心も重くいや〻ながら引返したりと思へば正気付きたり。親族の者寄り集ひ水など打ちそゝぎて喚生かしたるなり。」
瀕死体験をして蘇生するのは、神話の時間としては原始的である、という吉本隆明の指摘は、これこそが一番原始へと「遡れる時間」だという主張だ。
同時にそれは『古事記』のイザナギとイザナミの蘇生=「冥界下り」との継続性がある。(4)
「伊耶那岐の命見畏みて逃げ還ります時に、その妹伊耶那美の命「あに辱見せつ」と言ひて、すなはち予母都志許売を遣はして追はして追はしめき。(中略)いやはてに、その妹伊耶那美の命みづから追ひ来ぬ。しかして、千引きの石をその黄泉つひら坂に引き塞へ、その石を中に置きて、おのもおのも対ひ立ちて、事戸を度す時に、伊耶那美の命の言らししく、「愛しきあがなせの命。かくせば、なが国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」しかして、伊耶那岐の命の詔らししく、「愛しきあがなに妹の命。なれしかせば、あれ一日に千五百の産屋立てむ」ここをもちて、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生きるるぞ。」
神話と瀕死体験とは、時間的対応があり我々の思考では、時間的に同時性を持つとする。仮にこれを中間連続とし、その中間はまさに連続しているものだと考える。この世からあの世へ行く場合にもスムーズな移行を行う。逆の場合も同様である。こういう世界は神話的思考があるところにしか成立しない。
『遠野物語』や『古事記』といった対称的(中沢新一)な世界の横断の神話の記述の仕方というものも、神話的な時間のところでしか成立しないのである。
そこでは、「その黄泉つひら坂に引き塞へ」ると、「一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生きる」のだ。
『リゼロ』には、この二重性が内包されている。
●スバル=英雄の「冥界下り」としての時間=「異世界召喚」
●スバルの死の反復=『遠野物語』
ここで、大塚英志の「ゲーム小説は一回性の死を描けない」という指摘。
これは『All You……』で、「記憶だけが蓄積される」ことでキリヤが、ギタイを倒すためにその能力を活かして経験を積み重ねること以上に、あるいは『うる星やつら2 ビューテュフル・ドリーマー』(1984・押井守)のラムの夢以上に、スバルは自分自身の大人への成熟のために、反復される死を利用するにまでなってしまった。
『All You……』では千葉県南部(らしい)「戦場」という世界にキリヤは最初から属し、死のループを繰り返した。キリヤは最初から「その世界」に属する人間だった。
しかし『リゼロ』は「現実の普通の人間」として「異世界」という場所に二重のアイデンティティで属する形だ。そこはまさに、この世からあの世へ行くスムーズな移行を持つ「ファンタジー」と「現実」の中間連続の構造の原始部分である。
異世界ライトノベルのテンプレートのもう一つは、主人公が死に(臨死体験)別世界へ転生する(神話)という、「冥界下り」の原始時間の体験ということで定着している。
しかも『リゼロ』は、そのあちら側とこちら側が中間領域の対称的な場所で、さらにそれを「死に戻り」によって遡るのが主人公のロール(役割)だ。
簡単に言えば、下った冥界という死の世界で、何度も何度も臨死体験をするのだ。しかもそこは現実と連続性がありながら、ファンタジー世界(そのもの)とも連続性のある時間だ。
では、一体スバルという青年はどの場所で自らの死を認識しているのか。
恐らく、スバルは自身の死の反復をファンタジー世界での出来事だと認識しているはずだ。しかし、彼はそもそもその世界へ「異世界召喚=現実の死」された臨死状態の人間なのだ。連続性を持った死の中の死。それは対称性の論理でなければ認識できない。熊=人間(対象性人類学)の神話の世界だ。
それはまさに「ここ」ではない、神話的な時間の中の「ここ」を構築する入れ子構造としてある。あるいはライトノベルとの「異世界」だからこそ、奇妙な空間をエクリチュールに落とし込むことに成功しているとも言える。
さらに興味深いのは、例に挙げた二つの神話(民話)は「ゆきて帰りし物語(home-away-home)」である点だ。このトールキン以前から続く伝統を、ライトノベルというファンタジーは最も容易く破壊していく。
『D&D』(1974)という複数の物語を生産するテーブルトーク・ゲームが、『指輪物語』(1954〜1955・J・R・R・トールキン)から派生したように、物語はゲーム的な反復生産を行い、現実に帰還しないことを恐れなくなる。
『千と千尋の神隠し』(2001・宮崎駿)までは、「ゆきて帰りし物語(home-away-home)」は機能していた。
南信州の「遠山祭」という八百万の神が湯に浸かる祝祭をモチーフにした物語は、まさに神話的原始時間を扱っていた。そこが興味深いのは、その世界が江戸の風呂屋のような風俗空間で「日本は全て風俗営業のような世界になっている」という宮崎駿の発言の点だろう。(5)
異世界において風俗化される少女=「美少女ゲーム」を日本アニメーションの開祖自身の手で表現してしまったのだ。
しかし、ここでの神隠しが、時間的に中間連続の同時性を持っていたように、原始時間の体験にはやはり連続性があった。「神々=メタ的私たち」の風俗に従事した(普通の)少女はしっかりと、両親を救うという目的を達成し帰還する。よってラストシーンの父親の車は落ち葉だらけになっている。
「なろう系」や「異世界ファンタジー」の走りとも言える2004年から始まった『ゼロ魔』は、ヤマグチノボルの死によって絶筆した。
残されたプロットは2013年以前のもので、他の執筆者により2016年に完成したが、残された平賀才人はラストに、「異世界のヒロインと共に」実家のチャイムを押し、最後まで作者は帰ることを選択していたことが窺える。
我々にとっては完結までの十年を共に歩んでいるが、そのでもやはり、物語の中ではたった一年半ほどの原始時間の体験が示唆されているだけだ。「異世界ファンタジー」のテンプレートを作った作者もまた、最後は帰還を選択していた。
しかし、『ブレイブストーリー』(2003・宮部みゆき)では、主人公のワタルが、ガス自殺未遂母と離別する父との家族関係を修復する望みを叶えるために、ヴィジョンという異世界に旅立つが、ラストは当初の目的との選択を迫られるが、その世界の仲間たちと冒険を続ける方を選ぶという一種のグロテスクなものだった。宮部自身のゲーム・フリークな側面が出した、現代ファンタジーの回答とも取れる。
だから、原始的な中間時間というのは意図的に断絶させられ存在しなくなってしまった。
現在のほとんどの「異世界モノ」は帰還を望まない。つまり、この「ここ」との時間の連続性を打ち切ることで、主人公は自我、あるいはそこに存在する世界そのもののアイデンティティを保っているのだ。現実との完璧な分断を行わなければ、そのファンタジー世界の永続的な「存在」は継続しない。そうなれば帰還しなければならない。
今、「なろう系」を中心に新しい想像力は、盛んにこの分断(帰還しない世界の構築)に取り組んでいるのだ。
これが、膨大なファンタジーやゲームコンテンツのデータベースから共通幻想(ナーロッパ)の世界で物語を作るライトノベルの行う、新たな神話時間の構築のプロセスなのだ。
※
第二期に放送された「聖域編」で『リゼロ』はメタ的な物語に転換する。
過去に違う選択をしていたら生まれていたであろう「if」の世界を見せられるという、「強欲」の魔女エキドナの試練に挑んだスバルは、そこで「自分が死亡した」後で悲しみに暮れる周りの人々を目の当たりにし、死に戻りは皆を救っていたのではなく「死んだ世界」の皆を切り捨てていただけかもしれないと気が付く。
スバルは孤独に「死に戻り」を繰り返すことで自分以外の誰も傷つかないようにするしかないと思い詰めるが、周囲にその世界で自分もまた周りの人に大切にされていることを認め、自分をもっと大切にするよう説得される。
東浩紀の言葉を借りれば、これまでは「多重人格性」で消費していた並行時間軸における、「他者」をスバルは劇中で意識しているのである。そして自己の選択によって消滅の運命にある彼らを慮る。
『All You……』の評価軸の持っていた、自然主義の読解対称の「物語的主題」であるキリヤのロマン主義と、環境分析的読解の「構造的主題」によるキリヤの全能性の放棄。その両者と「選択の残酷さを引き受けたうえで一つの物語を選べ。これが桜坂のメッセージだ」(6)ということを、スバルは仲間の力を借りて「物語の中」で、作者のメッセージとしてではなく、登場人物の主人公自身として気が付いてしまい、読者に対して解答まで出してしまうのだ。
そして、ロズワールというヒロインの領主は、「強欲」の魔女エキドナに与えられた『世界の記憶』の複製『叡智の書』を持っている。
ここにはスバルが「死に戻り」をしている、つまりループしていることが記されている。ロズワールも同時にヒロインのためにこの能力を利用しようとする。これは 『All You……』における「何周目か知っている存在」に近いのだが、スバルは「この周」の成功の条件として、『叡智の書』の破棄を約束させる。
スバルの目的は、あくまでも複数のゴールに辿り着く可能性において、こちらとコミュニケーションを取るためのゲーム的リアリズムにおける物語の中の死ではなく、あくまでも一つの確固たる結末に向けての必要不可欠な自然主義的な死を選択しているのだ。
これはメタ的構造の扉を開いてしまうのを、あえて主人公が自認することで、自ずと並行世界は消滅すること意味する。
『新世紀エヴァンゲリオン』が伸び代にした部分、つまり語られない物語の「if」は、全て『シン・エヴァンゲリオン』が作品内で「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」と葬って、新たなるシンジの扉を解放したのに近い。
『リゼロ』は未完の作品なので結末は分からないが、この騒動ののち、スバルは正式にヒロインの騎士に選ばれ、彼女を支えることを誓うのだから、確実に最後の物語の結路を作者は模索している。
そして、それは帰還を望まない断絶した神話時間になるに違いない。
これらから、受け手とコミュニケーションを取る能力を持つライトノベルの「if」の消費の仕方は、他作品とのコラボレーションという形で、作者自身によって補完される。つまり「なろう系」の世界で平行補完を得ていく形になった。
※
スバルは正式にエミリアの騎士に選ばれ、彼女を支えることを誓う。
水門都市での敵陣営との会合に臨んだエミリア陣営は、そこで大罪司教の襲撃に遭い、他陣営(異なる政治思想を持つ存在)との、世界の滅亡を望む目的を持った敵との共闘を、極めてリベラルに行う。
2000年の末に『バトル・ロワイヤル』(深作欣二監督)が公開された。
『新世紀の初め、ひとつの国が壊れた。経済的危機により完全失業率15%、失業者1,000万人を突破。大人を頼れない世界に子供達は暴走し、学級崩壊や家庭崩壊が各地で発生。少年犯罪は増加の一途をたどり、不登校児童・生徒は80万人。校内暴力による教師の殉職者は1,200人を突破した。自信を失くし子供達を恐れた大人たちは、やがてある法案を可決し、施行する。新世紀教育改革法ー通称「BR法」』
『新世紀エヴァンゲリオン』(旧劇)で、アスカに「気持ち悪い」と言われた先に待っていたのは、
友人を殺すか、自殺するか、オトナを殺すか……。
その決断だけだった。
それは、宇野常寛の言う「決断主義/バトルロワイアル」ほど、甘い世界ではなかった。
そして、2001年に小泉内閣が登場し、国会という劇場で高らかに「聖域なき構造改革」を叫び続けた。しかし、結果は緩やかなデフレーションで、日本の少子化、非正規社員、失業率は進んだ。そして自殺率は向上した。
僕たちは、その全てを見ていた。
隣町の小学校は統合され、学校のクラスが一つ減った。
大学卒業後、二時間待って十五分で終わる就職面接を何度も繰り返した。
友人の父は突然会社からリストラを言い渡され、失業した。
皆が「未来に対するぼんやりとした不安」を共有していた。
ニュースで情報のデータベースとして流れてくるのではなく、僕たちは全てを「そこにいて」見ていたのだ。
これは現在主軸になって、政治にコミットする存在とは、明確に違うヴェジョンを共有している。それは、飲み屋の食いごとのように語る「古き良き時代の零落からの、再生とアップデート」というのとは異なる。
「なろう系」の世代は、六十年代の学生運動も、七十年代の高度経済成長も、八十年代のバブル経済も知らない。
あるのは、生まれた時から永続する「ぼんやりとした不安」だ。そこではテレビゲームの剣と魔法の世界に打ち込むしか、生き延びる方法がなかった。
これは九十年代のオウム真理教からの、宮台真司の「終わりなき日常」が、さらに現実では進行しているとも言えるし、宇野常寛の「決断主義」にすら嫌気が差し、アパシーの極地にまで達してしまったのだ。
そして3.11で世界の崩壊を知ってしまった。
「直ちに影響はありません」
「直ちに影響はありません」
「直ちに影響はありません」
僕は憶えている。
高円寺の若者主軸の原発反対のデモで「知恵という父親のない若者」が音楽を奏でていた世代を。
大江健三郎が中心となったデモで、中年の司会者が壇上に立ち「大江先生は今日のために新しい靴を買いました!」と叫び、それに同調した「父親こそ正義」の世代を。
そこにあったのは実は反原発の目的を共有しない、「父親なるもの」に対する強烈な二分化の意識だ。
庵野秀明監督は『シン・ゴジラ』で、政治的挫折を知らない世代から、『ウルトラマン』『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』『銀河鉄道999』のオタク文化として、有事の際の政治の内部抗争を見事に描き切った。しかし、それは庵野監督自身に政治を描くことへの空虚さの自認もある。
だから宮台は作品を、「政治と文学のアイロニカル」と評し、宇野は「非物語の断片の氾濫」と評した。
しかしこれは「ゴジラ(神話世界)を、現代社会に召喚する」にはこの方法しかない、という物語における中間連続の実験だった。
よって『シン・エヴァ』では、庵野監督は自身のライフワークを、この中間領域のシステム(ラストの監督の出身地・宇部新川駅の実写映像)で終わらせることが可能になったのだ。
では『リゼロ』の世界を共有する「なろう系世代」の政治とは一体何を描き出そうとしているのか。
王選に参加して国を収めようとするのは、ヒロインたる女性ばかりだ。そして男性はそれを支えるナイトとして活躍する。
これは一定層の共有するフェミニズムの感覚から生じたものではないし、宇野のデータベース的社会の消費の「母性のディストピア」とも異なる。
「なろう系世代」には、一種のリベラリズムが共有されている。
権力闘争の先にいるとっくに卒業した、力のない嘘ばかりである「父親(ヘゲモニー)はいらない」のであって、エディプス・コンプレックスのようでもない。これは強固だった家庭という小さな国家の父性のファロスは弱体化して、代わりに大きな国家がそれに成り代わる。弱った父は、国に従属する。だから反権力を意図とするのだろう。
それでこそ、ライトノベルの想像力で国を納めるのは、自分が推すヒロイン(確固たる政治スタンスの議員)でなければならない、という認識だ。
政治にコミットし権力闘争を行うことの空虚さの共有と、対するアンチ・テーゼとして、キャラクターは他陣営の仲間を極めて尊重する。思想が違えど仲間である、という意識が確実に存在する。
この水門都市では他党の政治家たちと「健康な会合」を行うかのように集合する。そして魔女教という支配欲の権力を打破するために共闘するのだ。
これは小泉政権から、民主党への政権交代、そして第二次安倍政権までが青春だった世代の、アキハバラでの演説、「直ちに影響はありません」、アベマリオ、コロナ、そしてオリンピック……。我々に媚を売り「父なるもの」による、いつでも切り捨て可能な市民対する権力行使。つまりヘゲモニーに対する強烈な嫌悪だ。そこまでいかなくても白けた目であることは確かだ。
つまり、せっかく自分たちが連続時間を分断して確立した「帰らなくても良い世界」は、極めてリベラルな思想が中心でなければならないのだ。保守は許さない。
男の子のように見える貧民窟出身の少女も、男装の麗人も、それを支持する女装の男子もフェアな形で王選には参加ができる。
かつての「消費物としての女性」は動物化したオタクを満たしたが、今は「自分たちが消費されることによってこそ女性が輝く」のだ。そのためにスバルは何度も「死に戻る」しかない。
このループ構造の、多重人格性そのものの価値観が変わってきている。
この移行が『リゼロ』の明示している世界だ。これは単なるデータベース消費の母性を、「なろう系」が克服してしまった証拠だ。
宇野の提示した「ニュータイプ」=「政治的なものに対して免疫力のない彼らに対して、あくまで技術に対する憧れを捨てないまま批判的、政治的視点を持つ思想を育むこと」(7)は「なろう系」の一部では確実に共有されている。
つまり、現実世界との連続性を持つ神話時間との断絶を行わなければ、彼らは正しい戦後民主主義を維持できないことを知っているのだ。
確かに、この現代の日本に語るものはない。
だから、彼らは「帰らない」のだ。現実逃避的にファンタジーに耽溺しているのではなく、ファンタジーという理想郷の神話時間でしか、もはや日本の戦後民主主義は維持できないのだ。その臨界点に我々は立たされている。
しかし、彼らが永住を望む世界には、確実に現実にはない批判的政治の視点と、入れ子構造にまで複雑化した死生観と宗教的時間が息づいている。
これから彼らが行うべき仕事は一つしかない。
神話=「大きな物語」を内包していることこそが人間の原初活動であり、それを否定しない「小さな物語」の克服という両義性が異世界と現実の回路の開かれる道である。
このグレーゾーンにおいて、新しい方法で「ゆきて帰りし物語(home-away-home)」への中間連続の時間を構築するしかない。
それはもはや、主人公が現実へ帰還するという物語ではないのかもしれない。
ドラマ『ハゲタカ』(2007)で新自由主義の申し子(ホリエモン・村上ファンド)のような存在である鷲巣に、古き良き家族的経営を重んじる国産家電メーカーの大木会長は、自らの死の淵で彼にこう語る。
「やり直したいんなら、何もやらないことだよ」
あれから15年「なろう系」に留まらず、ライトノベルの想像力は、「何もしないこと」から「やり直す」ためにループで死に続ける。
彼らは社会に対して批判的、政治的視点を持つ思想を育むために、一度現実との回路を遮断する必要があったのだ。そこで生まれるリベラリズムは、今はまだ「帰れない」でいる。
しかし、その回路は「自己性(アイデンティティ)」の集積という「小説投稿サイト」のデータベースの中で共有されることによって、母性を超えた回路を切り開くだろう。
【引用文献・参考】
(1)(2)(7) 『母性のディストピア』宇野常寛(早川書房)
(3)『遠野物語』柳田國男(集英社文庫)
(4)『古事記』柳田國男(集英社文庫)
(5)『プレミア日本版』第4巻第9号(アシェット婦人画報社)
(6)『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』東浩紀(講談社現代新書)
中沢新一=『対称性人類学』
クロード・レヴィ=ストロース