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『オレたちのゲーム領域拡大』 飯田和敏・ロングインタビュー 「宮崎勤事件とオタク」

「飯田和敏」-ゲーム作家/立命館大学

kyoto2020.j-mediaarts.jp/event/

1968年11月26日産まれ。
東京都出身。多摩美術大学油画学科卒業。
大学卒業後、「アートディンク」に入社。退社後、インターネット・エクスポの松下パビリオンのコンテンツ『1996 ATLANTA』に参加。2001年に「予測が困難で多様性に富んだ舞台変化を楽しめるビデオゲーム機およびプログラム記憶媒体を提供する」、サンスクリット語からの「彼岸」から取った、有限会社「パーラム」を設立、その後、2003年に「バウロズ」に改名。取締役を務める。2010年から三年間、「グラスホッパー・マニフェクチュア」に所属。
東京工芸大学、デジタルハリウッド大学の勤務を経て、現在は立命館大学教授。文化庁メディア芸術祭のエンターテイメント部門の審査員を第17回(2013年)から第19回(2015年)まで務める。

【作品】
●『アクアノートの休日』(PlayStation)
●『太陽のしっぽ』(PlayStation)
●『巨人のドシン』(Nintendo 64 DD)
●『解放戦線 チビッコチビッコ大集合』(Nintendo 64 DD)
●『ディシプリン*太陽の帝国』(Nintendo Wii)
●『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 ーサウンドインパクトー』(PSP)
●『アナグラのうた 〜消えた博士と残された装置〜』
●『イージーダイバー』
●『KAKEXUN』
●『水没オシマイ都市』
●『モンケンクラッシャー』(Nintendo Switch)
●『スタジウム』

【寄稿/共著】
● 『ベストセラー本ゲーム化会議』浅野一哉・米光一成・共著(原書房・2002)
● 『日本文学ふいんき語り』浅野一哉・米光一成・共著(双葉社・2005)
● 『スピンドル式 鍛えない脳』浅野一哉・米光一成・共著(しょういん・2007)
● 『このアニメ映画はおもしろい!』川上大典・小張アキコ・須川亜紀子・武田かおる・大澤良喜・小中千昭・大井唱和・平田研也・共著(ポプラ社・2007)
● 『21世紀の定義 6巻 ゲームの世界』(岩波書店)

——これは戦後民主主義とゲームのインタビューなので、今回は「宮崎勤事件」について触れていこうと思います。
飯田さんが二十歳の時の事件です。


1988年8月22日、今野真理ちゃんを誘拐、殺害。
同年、10月3日、吉澤正美ちゃんを誘拐、殺害。
同年、12月9日、難波絵理香ちゃんを誘拐、殺害。
1989年6月6日、野中綾子ちゃんを誘拐、殺害。
犯行声明文や遺骨を送りつける。
1989年7月23日、八王子市で幼女の全裸写真を撮っていたとして逮捕。
自供により、全四件の事件が全て宮崎によるものと判明する。
となります


 宮崎事件はリアルタイムで体験したショッキングな猟奇殺人事件ですね。僕には十歳離れた妹がいたので、冷や冷やしていましたね。
 当時犯人は報道はされていなくて同一犯とも言われていなくて、関東近郊で誘拐殺人が起こっている、と。どんな犯人像かはいくつか報道されていたけれど、宮崎まではまだまだ辿り着けておらずに、すごく怖かったですね。
 特に公表された「今田勇子」の手紙が心底ゾッとしましたね。文章が怖いな、と思いました。

——あの手紙は伊丹十三の『スウィートホーム』や、横溝正史や江戸川乱歩のドラマに着想を得たそうです。

 そうなんだ。
 「今田勇子」の手紙を真正面から信じる人は少なかったと思うけれど、ただ自分にも娘がいて、死んじゃった……という設定があるんですね。遺族の方に骨と一緒に送られてきたんですね。そんなことを思いつくのは何なのか……。色々と語られていくのには何かしらの意味があったんですね。だから今思えば、あのおぞましさは何だったのか。
 かつて誘拐事件といえば「慶喜ちゃん事件」のような身代金や営利目的だったわけで、そういったものではない快楽殺人の片鱗が見えたという意味で、怖かったですね。
 だからあの「今田勇子」の手紙でフィクションの蓋が開くという感じです。

——現実がフェイクション化していく感覚ですね。

 そうですね。フィクションで構築されたストーリーが現実のものとして起こっていくという。そういった現実の歪みを感じましたね。

——「オタッキー犯罪」とのマスコミ報道があったので、今のゲーム・フリークが「オタク」と揶揄されます。
軽度の知的障害者の子守と観た『ウルトラQ』や『ウルトラマン』ので小学校時代は「怪獣博士」と呼ばれたり、決して他人ではないところもある。
その上で必ず宮崎自身の人格にも触れていこうと思います。


 まぁ、親近感は感じなかったけれどね。
 だからビデオ部屋が公開されて、「これがオタクの部屋だ」という報道がなされましたね。
 実際に宮崎はオタク第一世代の人間で、レアビデオのダビングをするのが趣味で、同好の人々と様々な交換をするんです。
 今みたいなネットでダウンロードするという簡単な方法ではなく、トレードをしていくという古典的なホビーの手法ですよね。そういう苦労するコミュニケーションを取りながら、ホビーに耽溺するスタイルは「マニア」「コレクター」とか「オタク」と呼ばれる人達なんだけれど、すごくそのこと自体は憧れのやり方ですね。夢中になっていくものを掘っていく際に、コミュニティーができる。そこでは世間一般から見れば価値のないものであっても重宝される。
 そんな趣味世界の在り方は大変好ましく思っています。今は失われてしまったかな。

——八十年代に流行した「ビックリマンシール」などは、企業が意図的にレアリティと作りましたが、今仰ったビデオマニアは自ら価値を生み出していますね。

 そうですね。だから宮崎の集めていたものであると、アニメ全話コンプリートというのもあるけれど、コマーシャルとかもコレクションして価値を生んでいたんですね。だから映像マニアですね。

 だから興味はあって宮崎関連の本はだいぶ読んだけれど、最近、警察での取り調べでの自供のテープが公開されたんですね。それは犯行を自供していくプロセスなんです。
 その時点では「ネズミ人間」というのは出てこないんですね。今の段階では僕らは真実を知ることができないんだけれど、その調書の中で明らかにされ立件され、物証もばっちり残っているんです。ただ四件目の犯行はなかなか自白しなかったけれど、それを取り調べでゲロって第一回公判が始まるんです。

 第一回の公判が始まるまでに二年間かかるのかな。そこから始まった公判で精神鑑定が行われます。そこでは拘禁症状もあったのか、虚構度が増していくんです。我々が読めるものとしては、明らかに公判での彼の発言が多いわけです。そこには警察の調書との差異が大きすぎるんです。
 だから死刑が執行されてしまった今は、取り調べと公判のどちらが真実だったのか分からないんです。
 だからオウムもそうなのですが、死刑執行してしまうと精査ができなくなるのです。つまり二度あることは三度ある、でまた次に起こる予防線として、死刑は問題点がありますよ。

 僕は『ディシプリン*太陽の帝国』というゲームを作った時は、裁判の公判記録から宮崎が構築したファンタジーやフィクションを中心にしたんです。
 というか、それに乗らざるを得ないですよね。

マーベラスエンターテイメント



——一橋氏がかなり言及していますが、多重人格性では公判記録が先走っている印象は拭えないですね。

 そうですね。ただ「今田勇子」という手紙は設定の作り込みからして、完全に憑依していて、宮崎自身の実像とはかけ離れた存在なわけであって、何であんなぶっ飛んだ犯行声明が書けたのかは分からない。
 後は「今田勇子」の手紙の中で「魔が入る」という表現があるんですね。「これは何なんだ?」と聞かれて「当時自分の住んでいた入間川だ」と「入る」、「間」、「川」というアナグラムなんです。「今田勇子」というのも「今だから言う」ということだとは本人も証言しているわけですね。
 パズルマニアだったのでアナグラムは多用されていて、「今田勇子」の手紙の中からも宮崎の名前が出てくる。
 だから最終的な着地点として、これが「オタク的犯行」だったと片付けていいのかは考察が必要だと思います。

——飯田さんの後に立ち上げる会社の名前もウィリアム・S・バロウズをもじった「バウロズ」ですよね。

 僕も危ないよね(笑)。
 そこに何かの真理を発見しちゃうのが「オタクからカルトへ」っていう道だからね。おぉ、ここに世界の真相があった! ってね。僕もギリギリなんです。

——でもその前の社名もサンスクリット語の「パーラム」つまり「彼岸」ですよね(笑)。

 それもめっちゃ危ないよね!(笑)
 それはでももう一つ意味があって「パラメーター」というプログラム用語表記で同じスペルを使うんですね。だからダブル・ミーニングなんですけれど。単なる駄洒落好きですよ。でもそこから立ち上がる禍々しいイメージというのは分かるんですよ……。

——気になるのはそこで、「絶対にコミットしたくない」と仰る、ニューエイジ的なものに無意識に接近しているんですよね。

 そうなんですよ。そこは割と単純な話で、僕の生きてきた時代の作品がニューエイジ思想をそもそも先天的に内包していたんですね。それが顕在化しているだけで、極度に進行したニューアカデミズム的なものは大事だとは思いますが、危険なものを産んだ現実がありますからね。

——ただ彼はアナグラムについては最後まで自供せずに、思いつきだったとしか発言しなかったのですよね。

 それこそが、さまざまな「魔の囁き」であり、社会のゲーム化ですよね。それにより理性が消滅してしまい、『ドグラ・マグラ』の松本俊夫監督の言葉を借りるならば「狂気というのは言葉が壊れた時に垣間見える」のだということです。

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 これは「魔が入る」にしても単なる思いつきなわけがなくて、かなり意図的に狂気によって自己正当化しようとしているだけに過ぎませんよ。

——そういった時代を生きてきた宮崎もまた本当にオタクだったのでしょうか?

 それは最初に結論から言っておいて、宮崎はオタクではあったと思うんです。ただ同人誌をいっぱい買って、二次元の児童ポルノを愛好するような人々とは違います。
 それよりも世代は前なのであって、郵便のシステムを使ってコミュニティに参加して、ビデオテープをコピーしていくというタイプのオタクですね。どちらかといえばこの境界は曖昧ですが、彼に相応しい言葉は「マニア」なような気がします。

 だから一冊のエロ劇画『若奥様の生下着』がカメラに写ったことで、「オタク族」だというラベリングがされて、「オタクって怖いわねぇ〜」と報道されたわけですけれど、後付けで「オタクの犯行」だと短絡化されたわけだけれども、僕はそれは明確には違うと思うんですね。
 シリアルキラーとう文脈での犯罪者というわけで、そのパーソナリティの一部にオタク的な趣味があっただけです。しかも当時のメインストリームではない、もっと渋い古典的なマニアだったんですね。

 だから当時のオタクだった人たちが宮崎によってぶっ叩かれた、ということがよく言われていますけれど、それはスクール・カーストの問題でも迫害され、マスコミでもバッシングされたということになっていますよね。
 僕自身はその迫害やバッシングの現場にはもういなかったんです。だから「あった」という人の証言を信じるならばそうなんだろうけれど、確かに風当たりは強かったのは職務質問の多さ、といった問題だったのですね。

 当時のオタクは髪をあまり洗わないのでベタっとしていて、銀縁の眼鏡をかけていて、小太りでトレーナーを着て、Tシャツはズボンにインして、薄汚れたジーパンを履いて、リュックを背負って手には紙袋を持っている、と。こういった一種の典型化された人たちは片っ端から職質されていましたね。だから「迫害」があったか、なかったか、でいえばあったのだと思います。
 でもこれは完全にメディアのミスリードだよ。

——それは中森明夫さんが最初にコミケに集まる「オタク族」を定義した時の描写と同じですよね。それをそのままマスコミが継承してしまってバッシングを行っていますよね。

 中森明夫さんは『宝島』で「東京トンガリキッズ」という連載をやっていて、東京に住んでいるティーンの生態を記号的に読み解くという仕事の一連の中で、パンクやニューウェイブ好きな人がいたり、ファッションに熱中する女の子がいたり……色々標本化するわけですね。その「トンガリキッズ」の一キャラクターとして「おたく」が命名されたんだと、僕はリアルタイムではそう理解していました。

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 そういった表面的に面白がること自体を批判する気はないのだけれども、ただやっぱり人間の理解という形ではあまりにも表面的過ぎています。
 例えば僕は戦後民主主義を作ってきた『ウルトラマン』を重視していますが「ウルトラマンマニア」というのはオタクなのですよ。しかしその『ウルトラマン』だけが好きなのではないのです。だからその後に成長する中で僕なんかはパンクを聴くようになったし、シュルレアリズムの絵画を志すようになったりと、オタク的素養はあるのだけれど、もっと重層的な存在が人間なんです。

 その側面が中森さんの当時の分類には欠けていたと思うんです。だから分かりやすい部分だけを使いながら、メディアは宮崎を「特殊な愛好家の人々だから大丈夫」だとミスリードしていたのだと思います。
 その手法は「やっぱり連合赤軍の人々ってヤバかったよね」というミスリードと同じだと思うのですよ。一人ひとりにはそれぞれの人生と理由があるんだけれど、「やっぱり過激派って凶悪な奴らだよね」という短絡的に報道されてしまう。

——形式化された集合体として個人性を切り捨てて報道するというミスリードであることですね。

 そうですね。そのミスリードに関する報道が現在までも続いているのはかなり病的なことだとだと思いますね。だから繰り返しますが宮崎にしてもオウムにしても安易に死刑執行を行うことですね。悲劇を繰り返さないためにも徹底的な解明が必要なわけで、その機会を損失してしまうということです。
 まだ八十年代にはそういった死刑制度というものの議論はされていたんですよ。でも、もうなくなっちゃたからね。ごく一部の人たちは真摯に取り組んでいるけれど、アンケートを取ると殆どの人が死刑肯定という調査もあるわけで、非常によくないと思います。諸説あるとは思いますが、こういった議論は継続されるべきであると思います。

 それで宮崎事件に話を戻すと、お爺さんの死によって崩れていった、と。そこから「祖父復活の儀式」や「ネズミ人間」が現れたり、その妄想は一体どこで作られたのかと思うと、取調室の時とは証言が全然違うので、裁判の時に罪を逃れようとして心神喪失から勝利を獲得するという手法もあるにはあるのだろうけど、死刑は免れないですよね。なので上手い作戦ではないわけで、あまり上出来とはいえないわけですよね。最初は詐病だったかもしれませんけど、ただ分からんですね。

——弁護団の策略も入っていたのは間違いないですからね。

 それにしても彼の妄想は気味が悪いし、よく出来ているんですよ。「骨食うか!」って話なんですよ。

——だからあれは一種のビデオマニアの二次創作ですよね。

 しかしこうやって宮崎事件を語ることも、もう真相には至れないことを考えると大変虚しく思いますね。被害者の証言などが得られるのならば、別の角度で検証されるのであろうけれども、みんな亡くなっているので犯行時の宮崎の様子とか正確な証言とかは分からないですね。
 ただ「今田勇子」や「魔が入る」というアナグラムを自由自在に繰り出しながら、現実を虚構化していくスキルというのは、やっぱり尋常じゃないものがあると思うのですね。それは精神鑑定以前に行ったことだから、それは信用に値するセンスだと思うのですよ。それはちょっとすごいと思うのです。

——ある意味劇場型犯罪のテンプレートを作ったともいえますよね。「連続殺人」と「サイコパス的な者に対する精神分析」と「劇場型犯罪」という、日本でも『羊たちの沈黙』などのサイコサスペンス・ブームの火付け役にもなる事件でもありますね。

 だからその後に「酒鬼薔薇事件」もあり、「宅間守事件」もあり、「加藤富弘事件」もあり、「秋葉原通り魔事件」もあり、「相模原障害者殺人事件」もあり……ということですね。
 それ以外にも気持ち悪すぎて報道が止まってしまった事件というものがあって、神奈川県のアパートで自殺志願の女の子たちを集めて、殺してプラケースに集めて入れて置くというのがありましたが、かなり被害者数は多いはずなのにちょっと続報が出ないですね。あんなのめちゃめちゃ怖いんだけれど。

 だから今おっしゃたような三点セットの規模感でいえば宮崎事件は大きかったですよね。そこから日本型シリアルキラーの誕生と、その継続は由々しき問題だと思いますよ。社会の病理ですね。

——飯田さんは宮崎にお詳しいようなので、彼の人格性にもお尋ねしたいです。
彼の家族構成にあった「ヒステリックな母」や「厳格な父」というのは現在の方がより明るみに出た、家族構成の問題点の形式であるような気がします。


 宮崎に関していえば、彼の語っている家族像なのでまんま信じられないですね。そんな家族であっても健やかに育つ子はいるわけで、ある規範から逸脱した環境であってもそれと事件の因果関係を見出すのは難しいと思います。
 だから宮崎事件の時によく言われたのは、「あなたの息子さんは大丈夫ですか? こういう状態になっていませんか?」ということで、あの部屋のイメージが使われていましたよね。それでビデオテープではなかったけれど、ウチとかなっていましたね(笑)。

 オタクは代替わりしているけれど、現在ポリティカル・コレクトネスにナーヴァスな反応を見せるのは、その時の原体験があるとされているのですよ。宮崎事件から始まった「あの時代はキツかったよね」というのが伝承されているのね。
 それがある時代は「スクールカースト」の問題として語られるんです。オタクの受難という文脈ですね。しかしここまで引っ張る問題なのかは疑問で「オレとあいつは違う!」といえばいいだけの話なんです。
 オタクというラベリングをメディアは使い、「全てのオタクはクレイジーだ」とするけれど、一人の人間という扱いをすればなんの問題もないのです。だからこれはメディアのあり方の問題としてダメですよね。

——それが掲示板やTwitterでコピー・アンド・ペーストされた空虚さはありますね。

 それが個人の体験と結びついちゃうんだよね。
 そこに僕も経験があるけれど思春期特有の猛ぶる感覚や、自分の身体がより男性的なものに変容していく中で、今や振り返るのが難しくなってきたけれど特殊な時期でしたね。かなりおかしかったですね(笑)。
 だから僕自身は鬱屈した経験というのはあまりないんですね。多少イジめられたりはしたものの、簡単に克服できてしまいました。ルサンチマンみたいなものはそんなに持っていないのだけれども……持っていないつもりなのね、分からないけれど。
 だから涼しい顔で飄々とやってこれているわけだけれど、思春期の頃はおかしかった。漫画とゲームに没入した青春ですよね。そういうルートですよね。

——ただ宮崎勤の取調室の告白の中で、「一度でいいから自分も主演を演じてみたかった」というものがあるのですね。この感覚は思春期では誰でも持ちますし、唯一宮崎に共感できるとするならばここなのかもしれません。
だからどんどん宮崎事件後に表面化していく中で大塚英志さんはすごいと思います。


 そうですね。だから本人にも面会して、弁護団にもコミットしていますね。
 だから日本におけるシリアルキラーの研究というのはやった方がいいと思いますね。

——大塚英志さんのテクストや発言を見ると他人事ではなかったんでしょうね。
恐らく大塚さんは当時『漫画ブリッコ』の編集長でしたから、「オレたちだってオタクなんだから! オタッキー犯罪という名称はおかしい!」という思いがあったんでしょうね。

https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=27535053


 それはやはりマスメディアのミスリードに対して、オタク当事者として表明する必要があったんだと思います。それで今どうなっているのかといえば、一部のロリコン漫画愛好者などは除いて、あの当時のようなバッシングはないと思うのですよね。寧ろ一般化されている部分はありますよね。

——コミケが大衆化され、幼児とは名は打たないですけれど、幼女的なものと性交を行うような漫画というのは一般化していますから、『漫画ブリッコ』が極端に異端だった時代とは違うのかもしれません。

 それはそれで別種の問題を孕んでいるけれどね。
 だから纏めると僕自身にはバッシングはなかったんです。ホビーとしては十分にオタクだったと思うのだけれど、ちょっとズレていた感覚でしたね。ただ僕は吾妻ひでおさんも好きだったのが、根本敬先生や初期蛭子好一さんも好きだったので、どちらかというとアンダーグラウンド的なものが好きなだけであって、ロリコンとは少し違うかな。
 もっとヤバいでしょ、根本先生なんて!(笑)

 だから裁判の中で猟奇性や異常性が明らかになる上で、宮崎とオタクとの切り離しは行われていったのだと思います。しかしその前後で確かにオタクに受難があったのは揺るがないですよね。
 そもそも『若奥様……』の一冊の時点で宮崎がロリコンではないのは明確なんですよ。様々な虚構性や家族集団も内包した考察の上での、このメディアのミスリードがやはり致命的なんです。

 その上で宅間守というのはお手上げなんです。何にも読み解けない。
 だから『ディシプリン*太陽の帝国』の中で宮崎よりも宅間を取り上げる方が難しかったでので、一通りリサーチしたものの自分たちの作品の中に入れ込むのは無理だったんです。あれだけ悪いことをして「何もない」んですよ。ただものすごい自滅願望の衝動があって、人生において様々な自暴自棄を行ってあの事件にたどり着くのです。
 それの方が僕にとっては怖いのです。

 では宮崎事件がなかったから「オタク怖い」というイメージが作られなかったかというと、そうではない気がする。
 だからスクール・カーストの話にすると、「モテていてリア充な生活をしている人」が上位にいますよね。「童貞をさっさと捨てて、可愛い彼女がいる」みたいなのが「あった」んですよ。だからそういうのも「ホイチョイ・プロダクションズ」とかが悪いんですよ。つまり広告屋ですよ。

 他者の人生の歩みという個別に価値のあるものに「童貞だからどうのこうの、そうじゃないからどうのこうの」というのを印象操作によって構築したのは広告代理店のシノギのためですね。
 「モテる男の選ぶレストランはこれだ!」とか「今旬なファッションはこうでなければならない」というビジネスに青少年が巻き込まれていく方が、オタクの脅威よりももっと唾棄すべき犯罪行為だと思いますね。

——だから記号消費のポストモダン的な広告代理店の台頭が、「童貞は危険だ」というメッセージを放っていた側面も否めないですね。

 とはいえ田中康夫さんの『なんとなく、クリスタル』を読むと、ブランドそのものにすごい価値があるわけじゃなくて、こんな暮らしをしているって馬鹿みたいって話じゃない。そういうようにも読めるんですよ。

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——アイロニーにも読めますよね。

 そうそう。非常にアイロニカルにも読める。だから当時田中康夫さんがどのような意図で書いたのかは分からないけれど、日本の若者の生活というのはこんなに空虚な記号消費ですよ、という現場からのリポートだとも読めますよね。
 それが「モテ至上主義」の誕生ですよね。
 だから結果的にスクール・カースト下位になってしまうのは、ロリコン漫画少年やゲーム・フリークだったりするんです。「オタクである」ということは従来の価値観とは別の世界に生きることで、こうした構造を放棄することも出来るはずだった。

——オレたちには『ウルトラマン』がある! ということですよね。

 そうそう。ホモ・ソーシャルの力学が過剰に働いている場所には近づかない、という選択もできたわけなんですね。その代わり孤独ですけどね(笑)。
 成人式とかも行ってないしさ。同窓会なんて呼ばれないし、思い出がない……。

——そもそも学校行っていないですからね。


 そうです(笑)。
 ヤバいやつだった、と噂されていたのは後年聞きました。だってモヒカンだったし。やっぱり『タクシー・ドライバー』になんなきゃダメじゃないですか!

https://www.banger.jp/movie/77740/


——トラヴィスですね(笑)。
これは男女差別ではないのですが、男にしか分らない映画ってありませんか?


 大島渚監督の『御法度』とかそうだよね。
 後はデートとしていつも『ロボコップ』をいつも観に行くんですけど、「これの一体どこが面白いの?」と尋ねられると、最後にマーフィーが「いつでも連絡していくれ」というシーンはマジで感動しない? 「そうかな……」。あれっ?

http://blog.livedoor.jp/jikogisei212/archives/2066830.html


——(笑)。


 だから逆に僕はそこを共有してくれる人でなければ付き合えなかったですね。
 デートで『フルメタル・ジャケット』を観に行ったことがあるけど、あれは大失敗でしたね。やっちゃいましたね。何が良かったのか説明することも不可能な領域でしたね(笑)。でもやっぱり一人で何回でも観るんです。
 意外なところでラリー・クラークの『KIDS』は良かった! あれは無軌道な男女の物語なのでデート・ムービーでしたよ。本来はサントラからしたらオルタナティブ・ロックがガンガンのデートしちゃヤバい作品なのに、意外と上手くいった。

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 だから時々あるよね。『トレインスポッティング』なんかも、本来デート・ムービーとしてどうかな、とは思うけれど機能しますよね。
 宮崎勤もそこまで頑張っていれば色々あったよ……。
 『トレインスポッティング』が「オレたちの物語」だと思ったかもしれないし、彼のホビーを共有できる女性もいたと思いますよ。

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——だからみんなに「宮崎的なるもの」はありますよね。ただそれを認めたくないから必死になってスクール・カースト的なものを作りますよね。

 そういうことか!
 宮崎の証言で言っているのは「有明テニスの森」に成人女性のパンチラ写真を撮りに行っているんです。つまり性の対象としては成人女性だったと思うのだけれど、ただ女性は自分が手の障害を持っているし、ブサメンでオタクな趣味を持っているから馬鹿にされて 相手にされないと思い込んでいるわけね。
 そこが宮崎の悲しい部分なんですね。
 そこから飛躍していって、成人女性の裸は見られないけれど、少女だったら見られるかもしれないと思うわけですよ。人として卑劣な逸脱をしているんですよ。

——だから宮崎の論調の中には絶対に認めてはいけないと思うものがあって、彼はイノセントなものを求めて少女を狙ったということですね。

 この宮崎勤の理解の仕方は、オタクは関係がないから。ストレートに還元してしまえば、自分より弱い者を狙った卑劣な犯罪行為と一緒ですよね。例えばターゲットにした少女にあった「孤独な者同士のシンパシー」というのも犯罪者の詭弁ですよ。

 宮崎は明大中野という関東の名門進学校の出身なんですね。これはリア充の行く学校ですよ。だがそこでも上手くはいかなくて、それは彼自身の問題なのかは分からないが、残ったのはスクール・カースト下位を我慢できなかった一人の青年の歪んだ妄想と凄まじい犯罪行為だけですよ。

 ただその宮崎事件の「現実の歪み」そのものが、『リング』の呪いのビデオのワンシーンとして召喚されるような存在にはなった。


https://twitter.com/_eiganoma1998/status/1011554627865595904/photo/2


https://twitter.com/_eiganoma1998/status/1011554627865595904/photo/1



——高橋洋さんが恐怖した、宮崎勤が現場検証で指を指す時の禍々しさですね。

 あの映像が原作には存在しないし、尺にして数秒でしょ。だけど宮崎事件の持っているおぞましさや悲しみを、見事に切り取って『リング』という恐怖世界に接続することで、「貞子」というものを産み出してしまったんですね。

——あの事件の禍々しさを後世が追体験できるのは、あの一コマでしょうね。

 そうですね。
 後は石井輝男監督の『地獄』というのもありますけれど(笑)。
 「悪いヤツは地獄で待ってろ!」っていうね。
 まぁ、好きな映画ですけれどねぇ。
 あれは必要ですよ。「悪いものは悪いんだ」という石井監督からの鉄槌ですよ。どんな背景を背負っていてもダメだぞ! っていうメッセージなんです。

——だから死刑にするのではなくて「お前ら、地獄に落ちたらこうなるぞ!」ということですね。

 そうそう。そこですよ。
 ちょっとあまりにも過小評価されていますよね!
 あんなに真理に迫った映画はないですよ。それは法とかが裁くのではなく、地獄で閻魔様が裁くのである、という石井監督の教訓ですよ。

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——他に何か宮崎事件で何かご意見はございますか?

 宮崎を強烈にバッシングする中で、「おニャン子クラブ」的な広告代理店の仕掛けが『私をスキーに連れてって』で完成するのだと思うのですけれど、これが同時にスクール・カーストという幻想を完成させてしまった諸悪の根源であろうと思うんですよね。

——その後に野村真司や北川悦吏子なんかがどんどん再生産していくという。

 だからこれは「モテる」「モテない」というスクール・カースト的な論理ではなくて、彼ら彼女らが描こうとするのは極めて性差別的なものですよね。だってそこでは女性はスコアですから女性軽視ですよ。つまり「トロフィーワイフ」の伝道活動ですよね。
 そんなカルチャーの真っ只中に、悲劇的と言っては語弊があるかもしれないけれど、宮崎勤はいたのかもしれないですね。

——宮崎事件以後から「有害コミック騒動」なども起こりますね。

 僕は根本敬先生と蛭子能収さんの漫画だったから、もっと有害だったので……(笑)。
 あまりにも有害なものはそういうターゲットにもなっていなかったと思いますね。でも『ギニーピッグ』が発売中止になったのは、残念でしたね。

——ただ宮崎の部屋にあったのは『ギニーピッグ4』なんですよね。

 ただ日野日出志監督の『ギニーピッグ4』が発禁処分になったのは残念でしたね。だって日野日出志と僕の付き合いなんてドラえもんより長いですからね。
 『毒虫小僧』というカフカの『虫』を児童漫画に翻案した作品があって、この作品を『火の鳥』の前に読んでいますからね。だから児童漫画の光と闇があるとするならば、光が手塚治虫先生で、闇が日野日出志なので。
 僕にとって宮崎事件が大きかったのは日野日出志の名前を久々に聞いたら、そこがバッシングされたということですよ。

https://www.betaseries.com/en/movie/17685-guinea-pig-4-devil-woman-doctor
https://www.sukima.me/book/title/BT0000382881/



——恐らく殆どのメディアが『ギニーピッグ』は観ていないではないですか?

 観ていなと思いますよ。
 だって「1」以降はコメディだから。
 だからそこからスラッシュ・ゴア描写がだいぶ丸められたんじゃないかな。

——『死霊のはらわた』や『悪魔のいけにえ』も叩かれたましたね。どちらも美術館にマスターフィルムが永久保存される名作ですが。

 叩かれた方がいい気もするけどね(笑)。
 批判はされども、ちゃんと見る機会が保証されているというのがいいよね。
 だから作品そのものを叩くのではなくて、スプラッターそのものを叩くという方向にシフトチェンジしましたよね。

——ただ『漫画ブリッコ』は岡崎京子先生が出てきた土壌でもあるので、そういったプラットフォームが失われた損失は大きいですよね。
ただここでの編集者であった大塚英志の批評で面白いのは、『漫画ブリッコ』で岡崎京子が受けなかったのはオタクに「現実の女子」を想起させるからだ、というものです。

 現実と対峙するのではなく、現実から逃避するという若者の挫折ですよね。七十年代の若者は逃避する部分もあったかも知れないけれど、しっかり対峙もした上で挫折もしたんです。
 ただそれ以降のユース・カルチャーというのは単なる逃避の場所になってしまいましたね。ただ今現在は、現実との対峙の局面だと思うのですよ。元気のある人はガンガンにやっていきましょう! って感じです。

——『ガンダム』にせよ『ヤマト』にせよ歴史修正的な側面は否めないですが、当時の若者は歴史の体系としっかり向き合っていましたね。

 だから富野由悠季監督にしても押井守監督にしても、政治的挫折の末のクリエイションなんですね。ここは結構大事なポイントだと思うんですけれどね。

——「アーティストと政治挫折」というのは、近代のみの現象ではなくて18世紀のロマン派詩人・ウィリアム・ワーズワースもフランス革命にコミットメントして政治的挫折を味わった作家ですね。

 僕の好きなギー・ドゥボールもそういった政治活動にコミットした一人ですが、やはりその後の作品と当時の政治は分断されていて、そこの結合の纏まった資料というのは出現せずに、あまり深く言及されていないのではないかと思いますね。
 ここの思考はもう少しそれこそアカデミズムが中心点に置かなければならない重要なファクターだと考えます。宮崎事件以降のオタクと文化にしても、その側面からの立体的な論評が行われていないのが現実ですね。それにより危険なものが再生産されるものもあるし、その場所が例えばそれこそ僕のテリトリーであるゲーム業界ではなくて、「〜省」といったところの行う「オタク誘導装置」の危険な文化利用のアジテーションだったりもするわけです。
 そういった政治的挫折のない中で、純アニメーターとして大成したのが庵野秀行さんなんですね。

——つまり庵野監督の『旧劇ヱヴァ』のラストでアスカの首を絞めたシンジが「キモチワルイ」と言われますね。あれは宮崎ですよね。

https://twitter.com/Hiyori_pocket/status/1267407170712166400/photo/1


 そこまでに随分、尾を引いたね。庵野さんが時代の幕を引くまでに。

——しかしそこから東浩紀さんが、アスカに「キモチワルイ」と言われない世界、つまり「セカイ系」を擁護しますね。それは『動物化するポストモダン』から始まる、多重人格性とマルチシナリオの同一性の指摘ですが、未だにこの論調がゲームの主軸ですね。

 僕はノベルゲームはやらないですね。『ひぐらしのなく頃に』とか話題になったからやりましたけれど、全然殺しのシーンが出てこないんだもん!
 ノベルゲーム全盛期は自分自身がゲーム制作に没頭していたから、「key」という会社が重要な作品を作っていたというのは耳に挟んではいたけれど、遊んではいないですね。「ゲームではない」とはいえないですが、やっていないから語れないですね。

——個人的な意見ですが東浩紀さんが、「Yuno」などの「全てのキャラクターと性行為を行うのがクリア」であるとして、多重人格性の自分の心に陥った主人公の再統合を目指した、というのが、2000年代の論調であり、せっかく庵野監督の終わらせた「宮崎的なるもの」の再生産の評価だと思います。

 それはあるのだけれども、ただやっぱりある特定の迷路にハマってしまった人には、救済だったと思うのですよ。だから全く否定はできないと思うのですよ。
 ゲームのようなサブカルチャーは弱者、「もう生きてくのがヤンなっちゃうよね……」という困難を抱えている人のための福音にもなるものだから、それから生きる気持ちを得たのであればそれは必要なコンテンツなんですよ。
 基本的にそれが「エロゲー」にせよ、『GTA』にせよ「キモチワルイ」仲間であることは変わりがないということですよね。

——ここも触れておきたいのですが、大塚英志さんは「キャラクター小説」は評価するのですが、「ゲーム小説」は批判するのですね。つまり「ゲーム」には一回性の死が描かない、という指摘です。

 僕自身の作ってきた『巨人のドシン』では、島の名前が「バルト島」というのですね。語り部が「ソドル」なんですね。二つ合わせると『チベット死者の書』の名前になるのです。

 ドシンは朝産まれて、日暮と共に消滅していくのです。代を重ねてどんどん身長が増していくのだけれど、四十九代までなんですよ。つまり四十九日なんですね。だから死後の世界なんです。
 だから遊戯というのは、日常から乖離した場所にあってそこは「死」とか「生」とかが、一緒になっているようなレイヤーなんですよ。そこでは死者と戯れることもできるんです。死者と生者が入り混じるグレーゾーンなんです。

 ただ我々は宮崎の公判で彼の主張を知るわけですよね。ただそれが詐病や確信犯的な虚構だったとしたら、社会がそれにずっと付き合ったわけだよね。「ネズミ人間」も「多重人格」もメジャーになったし、つまりは我々も共犯者関係ですよ。「ネズミ人間」を真に受けた人々もかなり「持っていかれている」んですよね。
 それはオウム事件で言えば麻原の「ハルマゲドン」の思想の恐怖に取り込まれていってしまった一部の信者たちもそうですよね。
 しかし仮に本当に拘禁症状なのだとすれば、それだけ今の日本はとんでもないまでに劣悪な環境である、というまた別のフィクションになってしまう。
 そこでしっかり我々は刑務所、拘置所やそこに服する者の存在の議論をすべきですよね。

 つまりこの全てが我々が現実の大部分で、虚構というものを織り込み済みで生きているという証明なんです。明確な議論は避けるとして、例えばそれが家父長制だというファンタジーだったりもしますよ。もっと言えば歴史というファンタジーですね。これも明言はしませんが、ここもグレーゾーンなのですよ。

 だから今現在のコロナでもクラスターが発生すると過剰に叩くでしょ。その人たちのメンタリティもやはりおかしいですよ。科学的根拠を持てないままにマス・メディアのフィクションに踊らされているんです。
 もっと長い目で見れば、2020年の社会というのは元号が「令和」に変わって、元号という思考プロセスがそもそもは神話に基づいているわけですよね。「神話」「伝統」「歴史」「今」という流れで考える時に、我々が生きているのはファンタジーの混じった現実なんですよ。
 これはかなり特殊な日本人のメンタリティなのかもしれません。
 ここまでの宮崎事件の先に見えてきたやはり時代のゲーム・コンテンツに限らずエンターテイメントというのは、必ずこういったモチーフは内包せざるを得ないということです。

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