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感嘆、憧れ、嫉妬の距離感

私は文章を書くのが好きだ。
だがその前に、勿論読むのも好きだ。大人になってからは、本という形状のものを読む機会はほぼなくなってしまったけれど、他にやるべきことがあろうがなかろうが、ふと気が付くとネットを徘徊して、興味が向いたものを何となく読んでいることが多い。

時折、素晴らしい小説を見かけることもあって、思わず引き込まれて時間の感覚を失い、読み終わってからため息をついた時、寂しさや切なさのようなものに混じって、私を染めていく感情がある。

こんな作品は、私には間違いなく一生書けないし、そもそも思いつかない。これを書いた人の頭の中身を想像することも出来ない。これは凄い。ありえん、凄い。というただただ感嘆する想い。

あるいは、

こんな文章を書けるようになる日はいつか来るのだろうか。いや、私にはこんな○○力も、××力もない。こういったものを書けるようになるためには、それらが必要だろう…しかし、身に着けなければ多くの人に読まれるような作品は書けるようにならないのだろうなぁ。やはり今の私には足りないな。といった、自分への反省と、賞賛の気持ちが入り混じった、憧れ。

もしくは、

なるほど、この文章がこれだけの評価を受けているのか。羨ましい。だが、確かにこのテーマや展開は受けるだろうが、もっと丁寧な書き方があるんじゃないか?いや、多少乱暴でも短くテンポが速い方が読みやすいのか?それにしても、これがベストには思えないな。私ならもっと違う書き方をする。いや、これはただの負け惜しみだ。この話を先に思いついていた訳ではないのだから、どの道私には書けなかった。しかし、これが評価されるなら、私だってもっと評価の高いされるものが書けるのではないか?
といった、分析に見せかけたダメ出し、に見せかけた嫉妬。

恐らく、私の内側にある何かが「読んだ作品と自分との距離」を勝手に測定して、その距離が近いと判定したものに嫉妬を、それなりに離れているものには憧れを、絶対に届かないものには感嘆を、と使い分けているのだろうが、憧れは良いとしても、感嘆は自分の才能への絶望を呼ぶし、嫉妬は言うまでもなく見苦しい。

昔は何を読もうとも、嫉妬することなどなかったのに。感嘆するにしても、「ただただ凄い」という感想で終わり、「自分には絶対に無理だ」というような比較などしなかったのに。
これは私が年を取ったからなのだろうか。
文章を書くという事について、昔のように純粋に「好きだから書く」のではなく、「評価されたい」という願望が出てきたからだろうか。

私は子供の頃から、あまり何かに憧れたり、羨んだり、(恋愛以外で)嫉妬した経験がないので、どうもこの手の感情の対処の仕方が分からない。
どうしたもんかと首をひねりつつも、黒い嫉妬に対しては「何がどうあれ、最後まで面白く読まされた時点で自分の負けだ。対等ぶりたいなら、一本でも二本でも自分で小説を書き上げてから言え」と自分に言い聞かせて忘れるようにしている。

読むことを純粋に楽しめなくなるのは嫌だなぁ、と思いつつ。
根本的には、書いていくしか解決の道はないのだろうな、と薄々気づきつつ。
今日も私は、ネットを徘徊しては文字を読み、自分との距離を測っている。

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