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言葉だけでコーチすることが危険な理由

最近はっきりと自分のワークショップでのあり方が変わった。

何が変わったのかというと、言葉だけでの指導から実際にやってみせる機会を意識的に増やしたんですね。

やってみたら何が起きたのか?なぜやってみたのか?書いてみようと思います。

言葉は役に立つが限界もある

まず大前提として。言葉はとても興味深く奥深く、とっても役に立つ。
言葉があったからこそ自分の考えていることが明確に分かるし、大きく言えば文明が発達したのだって言葉なくしてはありえない。(※大きく言いたい)

インプロのコーチにおいても、言葉というのはとっても大事な役割を果たしている。

即興で芝居をしているプレイヤーに対してリアルタイムでディレクションをする「サイドコーチ」や、即興を終えたあとのプレイヤーが自分の中で何が行われているのかをフィードバックしてもらい、それに対してより実感が深まるような対話をするのも「言葉」があるからできること。

そしてこの「サイドコーチ」と「対話」はインプロのコーチとしてめちゃんこ大事な要素だと思う。

しかし、難しいワークに挑戦したときに言葉だけだとどうにもうまくいかないことが、あった。(※もちろんワタリの実力不足で言葉だけでも十分にそこにたどり着ける人はいるかもしれない)
伝えれば伝えれるほど皆が考えてしまう。逆効果になっている。

そこでワタリが実際にやってみることにした。

そしたらば、その日、革命が起きた。(※大きく言いたい)

殻がパカンパカン割れる音が聞こえるように

「やっとわかった」「めっちゃ楽しい」「フリーシーンと変わらないってこういうことか!?」

などなど、一緒にやった人や、観てる人から感想が漏れる。

それと同時により具体的に
「自分が遊べていない」「相手の言っていることを真面目に聞いているだけで発想する身体になっていない」
などの自由になれていないことを、これもびっくりするけど、参加者が自分で実感していった。わかっていった。

そんなアハ体験がアチコチで起きた。ワタリはただプレイをしただけなのに。

昔から教育現場で言われている真理なる言葉を思い出した

「子どもは言ったことにはならず、観たものになる」

この言葉を教育現場で聞いたときにものすごく合点がいった。
それはインプロにおいてもそうだ。
自由じゃない人がいくら自由を説明しても参加者は自由にはならない。
むしろ自由じゃない人がさもわかったように自由を語っている嘘くささを真似てしまう。

そして、これは大人も同じだと思う。

また自由な人がコーチをしていても、その人の「言葉のみ」だけだと伝わる情報量はそれほど多くはない。
参加者はその言葉を、可能性の海の中から拾い上げ、こうかな?ああかな?とまた自分の脳みそで考えてしまう。これはものすごく時間がかかってしまう。

よく使う例えだけど、これ「自転車に乗る」ってことで考えてみる。

自転車に乗ってる人を見たことがない人が、自転車だけ渡される。
コーチは「サドルにまたがってペダルに足を乗せて、両手はハンドルに。じゃあどうぞ!」って説明をする。
当然コケる。
「どうしてコケたのか?」または「どうやったらコケないように乗れるのか」を、これまた言葉だけで説明される。
乗れるようになるだろうか?

それよりも、実際に乗って見せたほうが絶対に早い。

自転車で例えるとめっちゃイカれてるって思うけど、いろんな局面でこんなシュールなことが起きていると思う。

きっかけ

ワタリ自身が実践する。
これは今まで全くなかったわけじゃない。
ただ回数としてはそんなに多くはない。

やらないのにも理由はあった。

やることでそれが正解みたいになるということ。
その昔、ワタリがまだコーチをしていないときの話だけど、テンションのあり方から喋り方までワタリみたいにやる人が増えたことがある。
ワタリのやり方が正解みたいな感じになり、それがうまくできなくて辞めた人もいた。(と後から聞かされてめっちゃ困った)

コーチじゃないのにそういうことになってしまうから、コーチでやるときなんてもっと
「あの先生のやってる感じが正解なんだ!」ってなってしまうぞ、と。

またきっと精神的に未熟なワタリは「どや!俺!すごいやろ!」みたいな感じになって、自分のステイタスをあげるためにやり始めただろう。(※そういう自分への恐れもあったのかもしれない)

そんなモロモロの理由から「その人の実感からつくっていけないか?」という探究が始まった。

そしてそれはかなりのレベルまで高められたと思う。
でも、限界はきた。

そんなときに、一冊の本に出会う。それが「インナーゲーム」だ。

テニスのコーチングに関する本なんだけど、国も職種も超えて多くの人に読まれている「指導にまつわる指南書」のような本。
ここに言葉だけで経験者(コーチ)が語りすぎてしまうことについて書いてある。
そして実感からどうやって選手を育てていくのかについても書いてある。とんでもなく良い本だった。

だから、よりはっきりと認識した。

細かく見ることができるのは当然。
でも、ただ細かく指摘するだけではダメ。
たくさん教えることで先生はご満悦。でも生徒は?

自分の身体を通しての学びのプロセスを体験せずに、先生の言葉だけを脳みそで反芻する。
脳内で答えや理想を追いかけてしまい、ボールも自分のフォームも見えない状態。
残るのは「自分はできてない」という残念感のみ。
で「もっとやらなきゃ!」となり、また先生が答えをたくさん言葉で伝えて・・・という悪循環。

武道では絶対にまずは日野先生のお手本が最初に、ある。
あーだこーだ指導はない。
とにかく観て、やる。で、考える、またやる。
煮詰まったときにはじめて少しヒントのようなものを言葉でいただける。
そしてまた挑戦していく。
これが学びのプロセスとしての王道だと思う。

しかし、多くは見本がない。言葉で説明だけ。
で、やった人のを見て、あーだこーだ指摘していく。
これだとプレイヤーは余計に頭で考えてしまう。
正解や理想を頭で捉えて臨んでしまう。

実際の身体や、自分の実感をもとに考え試すということが果てしなく遠くなってしまう。

ワタリの場合、多くは参加した人の振り返りをもとに、その人の実感を辿っていき、一緒に次へ繋がるようなところまでいくことが多かった。
しかしときに、オーバーティーチングになっていた可能性が、ある。

この本はそんな自分を客観的に捉える手助けをしてくれた。
また下手すると「もっと言葉を駆使して伝えるには・・?」となってよりオーバーティーチングの道をいったかもしれない自分を助けてくれた。(※そう考えるとゾッとする)

ということで、インナーゲームを読んで「やはり見稽古は大事だ」となり、自分が試しにやってみて、上記の「枠パカンパカンアハ体験」になった。

当たり前だけど体現者を見ることが本当に大事だ。

しかもやっているのは即興芝居。即興じゃない演劇だってそうだけど、ものすごく分かりづらい。だからこそ言葉だけでは難しいと思う。

思えば、ワタリが即興を学び始めたころ、日本には体現者がいなかった。
だからインプロをやっているかどうかもわからないw
途中から気づいたら言われるようになった「インプロバイザー」って名乗ることもものすごく違和感。あ、ここらへんは長くなるからまた別でw

体現者がいないからこそ「答え」がない中で、コーチの言葉をとっかかりにして自分の身体で考えられたっていうラッキーな部分があった。
でも、それだけだと全然学べないときにどうしていたかっていうと、違うところから「見稽古」をしていた。

ビデオでみた海外のインプロショー。
ロビン・ウィリアムズやジム・キャリーのスタンダップコメディの熱量。
竹中直人さんの「普通の人々」。
ダウンタウンのフリートーク。
ローワン・アトキンソンの「コメディの作り方(タイトルもうる覚え)」←これYouTubeで調べても出てこない。当時VHSで観てたんだけど知ってる人いないかな?

などなどを観て「かっけーーーー!!!」っと心躍らせていた。

これがなかったら脳みそガッチガッチになっていたかもしれない。
いつも体現者が助けてくれた。ヒーローがいるって超大事なことだ。

最後はコーチを受ける側の話にもなってしまいました。
コーチの言葉過多な指導の危険性について思うこと。
自分の身を持って実感したので言葉にして残しておきます。
何かお役に立てたら嬉しいです。

またそんなワタリのワタリーショップは毎月都内で多い時は12回くらい開催していますので!
指導する立場の人も、表現力を伸ばしたい人も、コミュニケーションについて悩んでいる人も、ジャンルを超えて、しかも単発でも参加できますので、興味があればぜひにご参加くださいませ!
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