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どこで暮らしていても、生きるとは心を揺さぶられること

「デンマークの人たちは、この映画を観てどんなふうに感じるんだろう」
そんな些細な疑問をきっかけに、デンマーク在住のライター・図書館司書のさわひろあやさんに映画を観てもらい、エッセイを寄せていただきました。
そこから見えてきたのは、主人公クリスたちが生きる社会の福祉・教育制度、そして個人の自立についての考え方。前後編にわけて記事をアップします。1/29(金)公開『わたしの叔父さん』の予習復習に、ぜひご覧ください!

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人々の表情、交わす言葉、空気感。全てが淡々と、静かに流れる時間。

デンマーク、南ユトランドで暮らす年老いた叔父さんと、姪のクリス。ふたりの暮らしを描いた映画『わたしの叔父さん』は、おしゃべりなコペンハーゲン人の街で暮らすわたしにとって、同じ国の日常とは思えないほど、静寂に包まれていた。
ミニマリズムのように、ふたりの交わす言葉は少ない。それでもクリスの目配りと、むだのない動きを見ていれば、ふたりがどれほどの時間を共に過ごし、またどんな思いで生きてきたのかを感じ取ることができる。

この映画を見ながら、わたしは以前働いていた職場の同僚のことを思い出していた。高齢の親が暮らすコペンハーゲン郊外のアパートに、月に1、2度、仕事の後、高速を飛ばして会いに行っていた彼女。ヘルパーさんが一日に何度も来てくれて、近くに暮らす兄たちも様子を見に行っていたけれど、それでも親の顔を見るために、ちょっとした買物をして一緒に夕食を取るために、彼女は夕方の高速を飛ばし、親のもとへと通っていた。
ある日彼女の父が転倒して身体を壊したときも、両親が介護施設に入所を決めたときも、そして父が亡くなり、母がひとり残されたときも。彼女は仕事の後、高速を飛ばして親の様子を見に行っていた。
それでも、仕事を辞めるという発想はなかった。それは彼女だけでなく、家族のだれにも。娘の訪問を心待ちにしていた母親でさえも、それを願うことはなかった。

クリスの叔父のミニマリズム的な言動の中にも、同僚の母と同じものをわたしは感じた。クリスがひとりで獣医の手伝いに行くかどうか迷っているときも、叔父は彼女を引き留めない。それどころか、普段は手伝ってもらっていることを、自分ひとりでやってみようと試みる。それが結局うまくいかなかったとしても、叔父はクリスをもっと頼ろうとしたり、責めたりしない。

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それと対照的なのがクリスだ。どんなときも叔父に気を配り、一瞬たりとも気を抜かない彼女の動きは、まるで幼い子どもから目を離してはいけないと感じている母親のようだ。
それでも、彼女もやはり人なのだ。無表情な彼女がたまに見せる、心の高揚や衝動的な態度。彼女を惹きつけて止まない何かがあることに、わたしは正直ほっとし、そして嬉しかった。

今のふたりの関係は、切り離せば命が途絶えるからではなく、言葉にはならなくても、ふたりで選んできたものだとわたしは思う。家業を続けたい叔父と、叔父を支えようと心を決めたクリス。でももし、彼女が未来に向かって歩むことを決めたなら、叔父は家業をたたみ、ケア付き住宅で暮らすこともできる。若いクリスの自立を、彼が応援しないはずはない。クリスの選択は、決して義務感や諦めによるものではないと、デンマークで暮らしていて、わたしは感じている。
それでもー。自分で選べる未来にも結果と責任が付いてくることを、彼女はわかっているのだ。叔父を残して、遠い街へと旅立ってしまうことがどんな意味をもたらすかを。そして、これまでの叔父との関係が、もう戻ることはないことも。それを思うとき、たとえ応援してくれるとわかっていても、心を決めるのは容易ではない。
福祉や教育が整った北欧でも、人は不安、自信のなさ、罪悪感、葛藤から完全に自由にはなれないのかもしれない。どこで暮らしていても、わたしたちは他者とのつながりの中で、感情に揺さぶられながら生きていくのだ。

さわひろあや
2003年よりデンマーク・コペンハーゲン在住。ライター。デンマークで児童図書館司書として公共・学校図書館で勤務。




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