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活動名を「文と芸」に改めます。(旧、小説工房わたなべ)

 表題の通りです。

 もうかなり前ですが、新作をつくっているとき、作品の左下に「小説工房わたなべ」と薄いフォントで署名を打ち込み、何だか余計だなぁ、と感じました。有り体にいえば、邪魔だとすら思いました。いや、自分が名付けたんですが。

 なぜ余計と感じたか。「小説工房わたなべ」という名前が、字面が、作品そのものに対して、(良い悪いは別として)何かしら影響を与えないだろうか、なんてことを思いました。できれば自分の名前はまったく気にせずに、作品に触れてもらいたいなぁ、と。そしてできることなら、(とっても矛盾した話ではありますが)作品のために、作品からは自分の個性をできるだけ省きたい、とも思いました。

 そしてその個性の象徴ともいえる「名前」つまり「わたなべ」を取り除くことにいたしました。
 これに加え、一般的に小説と呼ばれないような一文だけの作品も作るようになってきたため、「小説」という文言も外すことにしました。

 極論すれば、名前も何も載せずに、本文(と題名)だけというのが一番シンプルで望ましい、とは感じています。
 とはいえ、誰が作ったか、という情報を載せない──調べられない状況にする、というのもあまり良くはないと思いました。これは自分目線と、あとはお客さん目線と、両方からの理由です。まず自分のほうとしては、やっぱりこちらのnoteだったり、その他のSNSに繋がって欲しい、そうしてできることなら仕事に繋げていきたい、という思惑がありました(功名心とも言いますね)。一方、これを作ったのは誰なのだろう、もっと他の作品も見てみたい、と思って下さるお客さんの気持ちに応えられないのもよろしくない、という皮算用みたいな思いもありました。

 だから「小説工房わたなべ」よりも、ごくごくシンプルに、かつわかりやすく「文と芸」と名乗ることにいたしました。

(noteやその他のSNSのアカウントは今まで通り @watanagesan のままです。別に中の人の姓名が変わるわけじゃないですし。何よりSNSは中の人の旅に関する投稿が多いですから。多すぎますから)

 そうして、これはたまたま名前の変更とタイミングが同じだけなのですが、今後の活動内容も大きく変わることとなります。具体的に言えば、今までやってきた販売はほとんどなくなり、代わりにアート作品の展示をおこなっていきます。販売よりもずっと前に、自分がそもそもやってきたことです。ぐるりと時間をかけて立ち戻ったわけです。
(これを機に、ひとまずwebショップは10月末ですべて閉店といたします。現状、再開は未定です)

 とはいえ、展示の中身は、もうかなり変わります。以前はただ何となく面白そうというだけで、作品を展示していました。そこには衝動も理念も何もありませんでした。ただ、何となくです。

 しかしコースター小説の販売を通じてアーティストの方と話をするようになり(これは名古屋旅日記でも触れたKONMASAさんのことです)、作品というのはすべて必然性を持って生まれるものなんだと気づきました。ただ何となく面白そうという意識で作ったものは、そこに作者の意図が入り込まない=作者の意図をあれこれ想像する余地がないからつまらない、とも。

 必然性。自分が小説×アートの小品を販売していたのはどうしてだろう。それは以前も書きましたが、この商いで暮らしていけたら、という思惑があったからです。
 ではここにきて、アートの展示を行いたいと思ったのはなぜだろう。正直、上記のような思いもあるにはあるけれど、そこまで金銭を得たいと思っての行動ではありません(そもそも展示って利益があるわけでないし)。ではなぜ。いろいろと自分の内面を探ってみて、これだという言葉には行き当たらないのだけれど、端的に言えば「俺の思っていることや考えていることを、見てくれ」という叫びが、気づいたらあった、という感じです。そういう気持ちになったから、です。承認欲求ではなく、自己顕示欲、ということになるのでしょうか。とても傲慢な気持ちです。けれど自分の中では必然と呼べるほどに、強い気持ちです。

 とはいえ、正直何かしらの衝動で作品を作っている人に比べれば、それでもやっぱり弱い動機だとは思います。が、今はアート作品を展示したくてたまらないのです。そのはじまりが、大阪旅日記の中でも記した『客観』でした。

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(この作品、簡単に解説すれば──イベント中、多くの方に「客観、あるいはそれに類する言葉を書いてください」と制作のご協力をお願いし、たくさんの『客観』を書いてもらいました。で、何でこんなことをしたかと言えば──同じ意味の言葉を書いているはずなのに、当然ながら出てくるものは千差万別。とすると、真に『客観』なんてものは存在しないのではないだろうか。自分も含め、我々が普段の会話で使っている「客観的に言って~」なんていうのは、すべて『主観』なんじゃないか。という問題提起を表現したかったがためです。そうしてこの問題提起の意味がもし伝わるのならば、「私が正しい!」「いや、自分のほうが正しい!」という人と人との争いがなくなるんじゃないかなぁ、ということまで思っています)

 少なくとも今までやってきた「ただ何となく」という意識で制作はしていません。動機は必然でなくても、どうしてこの言葉を使うのか、どうしてこんな表現方法に至ったか、という部分については必然に裏打ちされています(『客観』を例にすれば、多くの「客観」を表現するため、自分ではない多くの他者に書いてもらうことが必然でした)。多分、一見わかりにくい作品だろうという自覚はあります。しかしわかりにくいからこそ、思考を費やすことになります。その思考を費やす、という行動こそがアートだと、自分は思っています。
 つまり今後はそういった作品しか作りません。そうして、次の活動──「文と芸」名義での初めての活動は、巨大な作品の展示となります。場所は今までも何度か出展してきたデザインフェスタ。言葉の持つ不完全性をテーマにした作品を、どかんと展示する予定です。これはもう、ただただ(自分が)楽しみなのです。

 以上、「文と芸が今後はアートをするよ、というお知らせでした。

 それでは今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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