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『アリスとテレスのまぼろし工場』まぼろしの街に生きる私たち【ネタバレ感想】

「何もない街を出る」話がとりわけ好きな私が個人的な感想を書きます。

■「何もない街」と東京

岡田麿里監督には何度か特集とインタビューをさせていただいていますが、なんとなく共通点もあるような気がして、(一方的に)シンパシーを感じています。
1つはアニメ業界にまだ物語の根幹を作る女性作家が少なかった時代に、男性メインの媒体で「自分を媒体にどう合わせるか」すりあわせをしながら作っていったこと。

2つ目は、自分が住んでいた街に複雑な感情を抱えていて、そこを離れて東京に出てきたことです。
私が東京に出たのは90年代ですが、岡田監督の自伝を読んで、自分が住んでいた街への感覚が少し似ていると感じました。

私自身のことを書きます。私は自分の住んでいた街を上京してからも「何もない街」だと思っていました。10代の頃、自分のいる場所が本当の居場所ではないと感じていて、「ここから外に出れば何かが変わる」と信じていました。

私が子供の頃、住んでいる街では女性が外で働くことは当たり前ではありませんでした。小学校1年生の時、社会見学でまだあった紡績工場に行き、若い女工さんがずらーっと並んで同じ作業をしているのを見て驚き、母に「工場以外にどんな仕事があるの?」と聞いたところ、「女の子なら、学校の先生か、町役場に勤めるかのどっちか」と返ってきました。

10代になり、自分の街にはない夢の仕事があることを外からの情報で知りました。雑誌を作ったり、イラストを描いたりする仕事です。10代の頃はもうバブル期。当時、情報と文化は東京に集積されつつありました。インターネットがない時代、田舎で摂取できる情報はTVと雑誌とラジオ。
「東京ではこんなキラキラしたことが起こっている」と発信してくるのですが、肝心のショップはみんな東京にしかなくて、アニメ番組もラジオ番組も、住んでいる田舎には電波が届かなかったのでした。
ネット以前、地方住みのカルチャー好き少女にとって「東京」は魅力的で、自分の街を「こんな何もないところ、早く出たい!」と思わせるような時代背景がありました。

そこそこ大きめの街(の付近)に住んでいると、女性が地元を出るには大きな理由が必要でした。
地方からの上京組には2種類あって、「親の許可が得られて進学のために東京に出られた人」と「自力で街を出てきた人」がいます。私は後者です。
地元のみんなから「地元で就職して結婚するのが普通」「東京に行ったっていいことないよ」と言われ続けてきたけれど、そんな呪いの言霊のぎぃーーっっと血が出るほど引き剥がして自分で就職先を決めて東京に出てきました。引っ越しの日、東京行きの新幹線から見たぐんぐん前に進んでいく景色と、借りたワンルームに布団が届いてなくてカーテンにくるまって寝た日のワクワク感を一生忘れることはないと思います。
街を出たことで、本当の自分の人生が始まった気がしたのです。

■「工場」舞台装置が生み出す停滞と可能性

はい自分語り乙。こうした「地方女子が持っていた時代背景」は、岡田麿里監督と『アリスとテレスのまぼろし工場』を考える上で意味があるのではないかと思ったので、まず私のことを書きました。

正宗たちが住む見伏市は、製鉄で栄えた街です。この街に直接のモデルはないにしろ、岡田監督自身が自伝などで綴っていた故郷・秩父とどこか重なるところがありました。
時代は80年代後半にも見えます。正宗たち中学生が受験勉強で聴いているラジオや勉強机の鉛筆削り、女子の体操着からの想像ですが。
「この街には映画館もない」というセリフがありますが、主人公にとって、自分が住む街の印象を切り取ったセリフだと感じました。「停滞した何もない街」という気持ちです。

パンフレットの岡田監督インタビューには本作を作った動機が書かれていました。そのひとつに、“時代の閉塞感、その状況をみんなが経験した”とありました。制作時期から考えてコロナ禍と重なっています。「街から出られない気持ち」を考えたことがない観客にも「コロナ禍の閉塞感」であれば伝わりやすい、そんな設計意図もあるのではないかと思いました。

■閉塞感と時間の停滞を醸し出す演出

閉ざされた街で描かれるのは「時間の停滞」と「閉塞感」。私たちは、世界観の設定からそれを感じることができます。
「時間の停滞」……これは古びた製鉄所と今は走らなくなった列車という舞台装置から訴えかけてきます。過去の時代に栄えた産業と現在の様子を対比として描くことで、「時間の停滞」が目に見える形で表わされています。
でも、決して完全に止まっているわけではないところもポイントです。工場には働いている叔父さんみたいな街の人たちがいます。今の自分が変化すると消えてしまうと言われている街で、現状維持をしている保守的に見える大人たちだって、ちょっと錆び付いているように見えるけど、オイルを挿したら動くんだぞ、的な。製鉄工場と廃線になった列車からはそんな力強さも感じました。

「閉塞感」の演出……ネットがない時代にしたこと。「外の世界がどうなっているかがわからない」ことを端的に表わしています。ネットがないことで、他の人たちがどんな暮らしをしているかなどの生の声が入ってこない状況を作っています。
代わりにあるのはTVとラジオ。TVは一方通行で発信する媒体なので、街以外の様子を発信することはありません。
正宗たちの傍らにはあるのはラジオです。
ラジオでは受験生のリスナーからの悩み相談が読まれ、DJがそれに答える代わりに曲をかける。正宗たちも進路を考えていますが、勉強をしながらもその先に進級・進学できるわけではないので「この退屈な日常からいつ抜け出せるのか」という鬱屈した感情には回答ができない。だからDJは曲をかけてせめて彼らの気持ちに寄り添う。これは中島みゆきさんによるエンディング曲「心音」とも繋がる寄り添い方だと思いました。

正宗たちの娯楽の中心は『少年ジャンプ』(に見える別の名前の少年マンガ誌)とラジオ。昭和末期か平成初期か、岡田監督が10代を過ごしてきた時代かもしれません。

■時間が停滞した「まぼろし」の世界

停滞した街を描きつつ、街の真相を知ることで物語の面白さは加速します。
正宗たちが生きている街が、実はすでに存在しない過去の遺物「まぼろし」の世界であることがわかるのです。
過去に岡田麿里さんにインタビューした時の記事を引用します。

《私、ハリボテとか、舞台の書き割りに心惹かれるんですよ。ハリボテだとわかっていたら、普通は「綺麗」だとは感じられない。でも、表現によって本物と変わらない力を持てる。「カラクリがわかった瞬間のガッカリ感」まで含めて「綺麗なもの」として見せられたらいいなと》

(2015年『Febri』vol.31巻頭特集『心が叫びたがっているんだ。』岡田麿里氏インタビューより)

「街がハリボテ」であるとわかったことで、「まぼろしの街」を懸命に支える大人たちと、鬱屈とした感情を持つ少年少女たちの日常が、より愛おしいものに見えてきます。

■岡田監督が考える「思春期」とは

渡辺が担当した『Febri』岡田麿里さん特集。『ひそねとまそたん』特集号は今すぐには見つからず

本作では、思春期の少年少女たちが感情を動かすことが、時が止まったままの街に亀裂を走らせ、現状を打破するトリガーになります。

思春期のキャラクターが好きだという岡田監督。
主人公の正宗たちは14歳の中学生。なぜ「思春期の子どもたち」なのか。大人との違いをこう語っています。
(すべて2015年『Febri』vol.31巻頭特集『心が叫びたがっているんだ。』岡田麿里氏インタビューより)

《私自身が、思い込みが強いキャラクターが好きなんです。「思春期の美しさ」とは「思い込みの強さ」だなと。(俯瞰視点で解決しようとする大人と違って)思春期の子どもはゴールが見えないぶん、自分からどんどん蛇行したりぶつかったり(略)その一方、思い込みの強さひとつで、大人には考えつかない方法で軽々と問題を飛び越えてしまったりする》

《大人が子供と違うところは、「仕方がない」と飲み込まなきゃいけないところ。そこが大人の切なさや美しさでもあるけど、思春期の輝きにはかなわないところでもある》

《思春期において恋愛は重要なんだけど、恋愛が異性の人間関係のすべてではない。思春期に、自分の殻から脱皮させてくれる異性の存在ってすごく強いと思うんですよね》

思春期とは人間の鬱屈とした感情と、届かない憧れにもだえる時期。自分たちだけでは生きていけないし、社会の中では保護され守られている存在。社会と大人たちからの保護は、殻や檻のようでもあり、外に出たいのに出られない気持ちを抱えている。実はその大人たちが作る殻が、子供たちを守るシェルターになっていることに気がつくのは、もっと大人になってから。

■狼少女という存在が、感情から理性を外す

停滞と閉塞感、ハリボテの世界。それらを正宗や睦実ら思春期の少年少女が「恋愛」によって感情を大きく揺り動かして、壊して突破していく。物語の軸はそこにあります。
「恋愛をすることで精一杯生きようとする」その生き様に共感した同級生たちと一緒に行動を起こすことが突破の鍵になる。それがラストに向けてのカタルシスに繋がっています。
私は、正宗たちの恋愛そのものよりも、感情が最大限に動き、捨て身とも言える行為をしていく正宗や睦実たちの「生き様」に心をバシッと打たれました。

「恋愛」が感情の発露になるとは思っても、それで大きな状況を突破するとはあまり思わない。そんなふうに考えてしまう性分の私ですが、正宗たちには感情移入できて物語の説得力を感じました。
理由は、五実の存在です。
製鉄所に閉じ込められていた五実ですが、パンフレットの岡田監督インタビューでは「小説で狼少女を書こうとしたことがある」と語られています。
五実という「狼少女」が魅力的に見えるのは、「人としての情動はあるのに、理性がぶっ飛んでいる」ところ。
現代に生きる私たち観客には、理性をぶっ飛ばすことは(もし今思春期の年齢であったとしても)難しい。本作に“狼少女”の五実を置くことで、「中学生の恋愛」が、街に亀裂の楔を打ち込むほどの強い感情にブーストさせることができたのではないかと思うのです。

思春期の少年少女の感情の摩擦が、変わらなかった日々にヒビを入れていく。大人が、トラブル回避に長けた存在だとすれば、大人たちが維持している世界に亀裂を入れるのは、思春期の子供たちである、という構図になっています。
この一連の流れ、この感情の摩擦こそが岡田麿里監督の作風であり、私が惹かれる理由だなと思います。

■生きるとは、いたいこと。生の実感を表わす五感

「生きるとは、いたいこと」。作中で出てくるその言葉で、登場人物も観客も「痛い」を想像します。
ラストにはそれが、「一緒に居たい」でもあるとわかります。

それでも、「本当に生きるとは、痛いこと」であるというメッセージは変わりません。

停滞した街で正宗たちが欲しているのが「生の実感」です。高いところから飛び降りたりと、痛い遊びを選んでする。この街では痛いという感覚が得られにくいからです。

そうした生の実感を映像の中で観客に感じてもらう描写には五感(視・聴・嗅(きゅう)・味・触)がありました。
視覚はもちろん、痛い遊び=痛覚、正宗と睦実や五実と触れあう触感、五実が正宗の顔を舐める味覚、正宗が五実から感じる匂い、嗅覚。そして、正宗が睦実の「心音」を聴く聴覚。
五感をひとつひとつ描いていくシーンでは、コロナ禍で失われたものを取り戻す行為にも感じました。

生の実感は、五実を送った列車から飛び降りた睦実が血を流すところにも表われています。

●消えた人に共通するのは

ここでとても気になるのが、煙の神機狼(しんきろう)で消された人です。なぜ消えたのか。
正宗は、大人たちから心を動かしてはいけない、変化すると存在が消えてしまうと聞かされます。
実際、正宗に告白した女の子は神機狼によって消えてしまいました。ほかにも釣り人や、どこかうつろな目で歩いている通行人が消えました。共通点は何か。おそらく「次の日が信じられない人」なのではないかと思いました。悲しさの次に「じゃあどうするのか」と次の日のことを考える人。静かに家にいるだけだと観客に思われていたであろう正宗の祖父が列車を動かすのは、ずっと「次の日」を考え続けていたからではないかな、と。

■「この街でも、自分の気持ち次第で変われる」

五実を送り届けた後、街の妊婦さんに赤ちゃんが産まれたことが「時が進んだ」象徴になっています。

「この街でも、変われるんだ」という正宗の言葉と、閉塞感がある街が動いたという実感が、この物語の一番の救いだと私は感じました。
まぼろしのようなハリボテでできた世界、繰り返される退屈な日常。
それは今の私たちに起こっていることだという風にも想像させました。
また、どこに居ても、自分の居る場所から打ち壊すことができるんだ、変われるんだ、私たちを取り巻く閉塞感を打破するのは私たち自身なんだ、という作品のメッセージが見えました。

■「子どもの頃」を象徴する街との和解

ここで最初に書いた私自身の話にちょっと戻ります。
街を出て、大人になった自分の視点からもう一度街を見ると、同級生たちが自分の居場所を作り、活き活きと過ごしていることに気がつきました。
「もしかして、この街はそんな嫌な場所ではなかったのでは?」。大人になると、自分と街の関係をもう一度捉え直す機会がやってくるのです。
そして大人になると自分の脳内にある「文化を感じるセンサー」も成長します。サブカルチャー領域だけでなく、美術や歴史、産業からも響くようになり、自分の街にも、美術や工芸品や歴史といった「文化」がちゃんとあることを再発見できるのです。

……今になって思うのですが、「自分が子どもの頃に住んでいた街が嫌い」という思いは、街そのものではなく「無力な子どもの自分が嫌い」というところにあったのだと思います。
大人になると、子どもにとって抑圧的な環境に見える殻や檻に見えるものは、実は子どもを守るために作られたシェルターだったと気がついたりします。

ネットの普及以降の各地域の変化もあります。同じ趣味やマインドを持つ人同士が結びつきやすい環境ができて、いろんな場所で街を盛り上げる企画やイベントを立ち上げることが可能になりました。各地方で「ご当地のもの」が人気になっていたりして、ネット以前の時代に上京した人は「故郷が変わってた!」と感じる人も多いのではないかと思います。

岡田監督にとっても、『あの花』舞台挨拶などで故郷である秩父が聖地になったり、街の人と交流をしたことで、街を通して「子ども時代の自分」の捉え直しができたのではないか(だから自伝を書いた)とも思えます。想像ではありますが。

■現実の私たちを取り巻く閉塞感

かつてTVや雑誌から一方的に流れてきて地方女子を悩ませた「東京のキラキラした様子」。住んでみればメディアが発信するキラキラした面ばかりではないことがわかってきます。たとえば満員電車には「満員電車ルールに乗れない人」に舌打ちをしたり嫌がらせをする人がいたりします。東京には自分をほっておいてくれる自由さがあるけど暗黙の都会ルールもあって、そのルールを知らない人には結構厳しいな、と思ったり。休みに友達としゃべろうにもカフェには人が溢れていて、30分列に並んで待つことも多いです。人が多すぎることも、ある意味では圧迫感とか閉塞感に繋がっているのかもしれません。

都心はコロナ以来、さまざまな個人商店が廃業して、それに乗じてなのか再開発が進んでいます。どれも背の高い複合ビルで、ビジネスエリアとファッションやライフスタイル提案の店のエリアに分かれています。似たようなビルがどんどん増えていく、という感じです。誰がやるのかわからないスポーツエリア(有料)も増えましたが、真に若者が集っているのは、そのビルの下に並んだ小さなラーメン屋さんや飲み屋さんです。東京都心の再開発は、住んでいる人のためでも企業のためでもなく、「お金持ちが賃貸料を取るためのもの」に変わりつつある気がしています。
東京という街もまた、“住む人のためではない何か”が進行している。閉塞感はどこにいても感じるんだな……と感じています。

あのキラキラした東京は、10代の頃の自分が遠くから見て憧れた「まぼろし」だったんじゃないかなと。

■ハッピーは亀裂の隙間から見える花火にある

今作の岡田監督へのオファーとして「岡田麿里200%の作品にしてください」とあったそうです。パンフレットのインタビューのラストには、こんな言葉がありました。
「痛みを感じないで済む人はいない。でも、そうでなければ得られないものが必ずある」。
この閉塞感を感じる2023年に、楔(くさび)のように入れられた亀裂には、何かしらの意味があるはずです。

本作では思春期少年少女の情動と閉塞感が描かれていきますが、最大のハイライトは、街の空に亀裂が入って、本来の(今の時代の)景色が見えるところだと感じました。五実がトンネルの向こう側にある現実の世界に行くことは、未来を信じられるという「意味としての開放感」。
一方で、「ビジュアル的な開放感」はやっぱりあの亀裂の向こうに見える景色だと思います。

真っ青な夏の空や蝉の声、夜空に開く鮮やかな大輪の花火。それが「今いる世界が壊れかけた時」にだけ見える。
それって最高にエモくないですか……!?
退屈な自分の世界を壊して見えるものこそ、本当に私が見たかったものだ、と。
こっちとあっち、どっちが「まぼろし」だっていいんです。

日常に亀裂が入り壊れかけている今だからこそ、最高の非日常の美しさに映るのかもしれない。
私が10代の頃に憧れた「まぼろしの東京」もそんな感じだったと思います。
その「まぼろし」を追いかけるために、今も生きているのかもしれません。


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