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誰かが羨む目に見えるものを手に入れてやっと、自分を認めていた


暑い。
30過ぎたあたりから、自分の汗がかなりニオうように感じる。
鼻が利く方だからこそ精神的にまいっている。
そんなことを夫に伝えたところ柔軟剤を変えてくれた。
なんと、発汗する度に汗のイヤなにおいを爽やかな香りに変えてくれるという優れものらしい。

その効果に期待しつつ、低めの温度に設定したクーラーをつけ、辛ラーメンをつくりながらカレンダーに目をやり、「もう8月?」と大きめにつぶやく。

夫が主夫になって早半年だ。

夫と一緒にやったことを整理してみる。

まず、3月4月は、近所の子ども食堂の障子を直した。

子ども食堂の障子を修理したいという話を聞いたとき、破ってもいい障子にできたら楽しいなと思った。
食堂に来た親子が緊張しなくてもいい空間にできたらなとか、パリっと張られた障子を間違ってパスっと破ってしまっても罪悪感を持たない空間にできたらなとか、アレコレ考えた末にこちらの障子修繕隊が誕生した。

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本来はダメと言われそうなことを、ありっちゃありだね、に変えられないかと考えている時がとても楽しく、これが「ある意味」としての最初の活動だったように思う。

ついでに、晴れた日にだけ浮かび上がる影絵の仕掛けも。

「好きにしていいよ」

オーナーからこの言葉を聞いた時、大谷鬼次の奴江戸兵衛が思い浮かんだ。
奴江戸兵衛は、小学校の図工の時間に「好きな絵をファイルに描いていいよ」と先生に言われて一生懸命模写した記憶がある。

そのファイルを見て、「ごめんね、なんかとても変だよ」と悪そうに意見をくれた字が上手な男の子がいたな、と思い出し懐かしく思ったり、でもその男の子の名前は思い出せず、そのかわりにその男の子がバッドばつ丸のトレーナーを着て「この俺をなめるなよ!」と泣いていたことだけは思い出せたり、思い出って不思議だなと思う。

そんな話をしながら夫と一緒に食堂の窓ガラスに奴江戸兵衛を描く。

「好きにしていいよ」という言葉は、大人になった今の方がそのいきなり得た自由さに怖さも感じる一方で、やはりとてもワクワクするし嬉しい。
人や場所によっては「とにかく任せるんでサッと適当にやっちゃってよ」にも聞こえるが、今関わらせてもらっている人や場所だと「信頼してるよ」に聞こえて、怖嬉しい。
ピリッとしながら遊べる感じが好きだ。

ちなみに、デザインが決まったあとに食堂のコンセプトが某アニメと聞き、急いで奴江戸兵衛のヘアスタイルを変更した。

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夫は「ええねぇ」と言いながらバランスを見て指摘してくれたり、笑ったりしている。

フリーになってからというもの、「ええねぇ」を日常的に誰かに求めたことも、もらったこともなかった私は、いかに「ええねぇ」に飢えていたのかを実感する。

夫が何をしてもしなくてもいいが(厳密には良くないが)、この「ええねぇ」だけは手放したくないな、と思った。
私も誰かに「それ、よくわかんないけど、なんかいいね」と言おうと思ったり。
そんな3月4月。

5月。夫婦トークイベントの開催。


内容は以下の通り。

6月。庭でキュウリやミニトマトを育て始めたり、ホテル三日月に義両親と行ったり。

本来はラベンダーやオシャレハーブを育てたいと思っていた庭で、すくすくとあっちゃこっちゃ育つミニトマトとキュウリを見て感慨深く思った。時に、これはハーブだと自分に暗示をかけたりもした。

また、義両親と義妹と一緒に旅行に行った。

「固定給はいらない。生活に必要な分を稼ぐのみ」

そんなことを言ってから約一カ月後、気が付いたら私はホテル三日月の名物「黄金風呂」に浸かっていた。

黄金の看板にドーーンと書かれた【開運の湯】の文字。
薄紅色の障子に囲われて佇むは、大人一人が足を伸ばして入るにはやや小さめなサイズの「黄金風呂」。
そこに書かれている効能はただ二つ。

1.幸せを招く
2.金運がよくなる

「風呂場では走っちゃダメ!」と口酸っぱく子どもに言い続けている私が、黄金風呂を視野に捉えた瞬間子どもの存在を忘れ駆け出していた。
しかし、先客がいた。

義母だ。

義母は、黄金の湯に口元まで浸かりながら目を瞑り手を合わせていた。その姿は黄金の湯の精霊のようだった。(なんとなく書かずにきたが、これは追々しっかり詳細を綴りたい)

そんな6月を終え、

7月。畑を手伝い野菜をいただく。また、傘もいただく。また、米もいただく。また、梅シロップや梅酒をいただく。また、子どもの服をいただく。

色々頂きすぎているが、一つ一つ、でもババっと振り返る。

友人の親族の畑を手伝い、その日に食べる分のお野菜を頂いている。
また、友人から、触れるのももったいないような、でも晴れの日も雨の日も毎日使いたくなるような、ヘラルボニーの一生モノの素敵な傘を頂いた。
また、友人である女子大生のご実家から30キロの玄米を頂いた。
また、別の友人から手づくりの梅酒と梅シロップを頂いた。
また、別の友人の子どもが大事に着ていた洋服を、私の子どもにと頂いた。

この夏は、ほぼ毎食野菜を摂り、玄米ご飯を食し、あえて晴れの日に、雨用のお気に入りのヘラルボニーの傘をさし、夜(たまに昼)には梅酒を飲み、たまにポツポツと入る単発の仕事に精を出して暮らしている。誰かのお気に入りだった服は、今は我が子のお気に入りだ。

以前は、モノをいただくということに対してありがたさ以上に負荷を感じていた。
この大きな恩をどのように返せばいいだろう、どれくらい返せばいいのだろう。返すものが少なくても嫌われるかも、多くても失礼かも。
何が正解だろう。何だったらイーブンになるのだろう。
あぁ、こんなに悩むのならば、もらうべきではなかった。
そんな風に思い悩み胃が痛くなっていた。

しかし今は、頂いた深い理由は分からなくとも
「ありがとう。とても嬉しい。大事にするよ、一つも残さないよ」
と素直に受け取れるのだ。
状況的に言えば「もらえるもんは何でももらう!」の根性が合っているのだろうが、そんな風に思っているのとも何かが違う。

「ササっとお礼を返して、借りがある状態を終わらせるぞ」
だった自分と何が違うのだろう。
職業や役職、年収に住む場所。洋服やアクセサリー、バッグに車や恋人。
誰かが羨む目に見えるものを手に入れてやっと、自分を認められていた。
(いや、例によってまたしてもカッコつけた。まるで全部手に入れたことがあるように書いたが、このうち手に入れられたのはバッグとアクセサリーくらいだ)

それでも、そんな自分は分かりやすくて、励ましやすくて、今よりもがむしゃらで、今よりも生きていくことに必死で、そんな風に頑張れた自分のことを今でも好きだ。

今だって変わったわけじゃない。
無欲になったわけじゃない。
プライドがなくなったわけでもない。
むしろ、今の方が強欲者なのではないかと思う。疑り深い私なので、何かを贈ってくれる誰かの心を強く信じているからでもない。

それでも、誰かの心を疑うのは無意味だと思い始めているからかもしれない。
もしくは、今すぐ返せるものはないけれど困った時にドカンと力になるから待っててよ、と、人との長いつながりを覚悟し、面倒なだけだったはずの繋がりに一歩踏み込む面白さを覚えたからかもしれない。
それともそばに「うれしいね」「ええね」という一言で、これはシンプルなことなのだと教えてくれる人がいるからかもしれない。

この辺りはまだまだ言葉にできそうにないけれど、もしかしたら言葉にできた時に、ひねくれものの自分を手放さなきゃいけなくなるかもしれないから、あえて今は向き合いたくないのかもしれない。
ひねくれつづけることも、なかなかに大変だ。

と、ここまで書いて、夫の「ええね」以外の言葉をあまり聞いたことがないことにふと気づき、念のためカマをかけてみる。

「ねぇ、○○ちゃんちのおばあちゃん、鳩みたいな髪型にしたんだって」

「ええねぇ」

黒だ。真っ黒だ。
自分からくだらないことを仕掛けたことはさておき、鳩みたいな髪型になっていいことなんて何一つない。
なんだか怒りが湧いてきた。
しかし、怒りを感じるとほぼ同時にフローラルな香りに包まれた。

怒りで発汗した私の汗に反応した柔軟剤の香りだ。

まさか、こんな時に効果を感じるなんて。
ありがとう。怒りを鎮める。

8月からは何しよう、ほんのり不安で、ほんのりワクワク。あとはなるようになるし、なんとかしよう。

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