リスタート

はじめて違和感を覚えたのは一〇歳、親戚があつまるお正月に叔父さんからお年玉をもらったときだった。そのときのことは、今でもはっきりと覚えている。一つしか年の違わない兄は五千円を与えられ、妹であるわたしは三千円しかもらえなかった。

「どうして和人のほうが多いの?わたしもほしい」と抗議した。当然の主張だと思った。

「未希は女の子だからね。」

思いもよらない叔父の言葉に、わたしは反論することができなかった。ただ悔しく、涙が出た。なんで?という疑問を強くもった。理不尽だと思った。母に何度も問いを投げかけたが、納得のいく答えをもらうことはできなかった。「妹なんだから仕方ないよ」と、いつもそれで片付けられてしまった。和人はおかしいと思っているようだったが、自分の取り分が減ることが嫌だったのだろう、多くもらったぶんを分けてはくれなかった。

女の子ってめんどくさいなと思うことがたくさんあった。お母さんは何かにつけて「女の子なんだから」といって片付けや掃除など家事の手伝いを押しつけてきた。そのたびに煩わしいと思ったし、「そんなの関係ないじゃん」と反論してきた。「男の子って楽でいいな」と思った。

そんなふうにして、家のなかでは反発してきたけど、外ではそういうわけにもいかなかった。あまりにもそういうことが多くて、いちいち反論していたら疲れてしまう。反論しても反論しても、同じことがあまりにもたくさん繰り返されるし、だからわたしは反論して自分を疲れさせるよりも、テキトーに受け流す術を身につけていった。

身体のほうも、だんだん女の子になっていった。小学校六年生の頃に生理がきた。保健の授業で習っていたし、すでに麻紀から聞いていたから、そこまで驚かなかった。だんだん胸も大きくなってきた。「ブラをした方がいいよ」って言われて、「嫌だな」と思った。めんどくさいし、息苦しい。できるだけこれまでと変わらないようなブラトップを選んだ。身体が女の子になる前、和人といっしょに裸で家のなかを走りまわっていた頃が懐かしい。今は「はしたない」と言われるのが煩わしいからしない。

中学生になると制服の着用が義務づけられるようになった。わたしは特段、制服に憧れは持ってなかった。これまで私服でスカートなんか履いたことなんてなかったから、スカートを履くのが恥ずかしくて嫌だった。「ズボンがいい」って言ってみたけど、返ってくる言葉は容易に想像できた。

「女の子なんだから」

ま、そうですよね。

家のなかよりも、外の方がもっとどうしようもない。家のなかでは、なんだかんだ言いながら、お母さんはわたしの自由を認めてくれた。だけど外ではそうはいかない。女の子がズボンを履いて登校するためには、強い意志が必要だった。先生は学校の決まりを押しつけてくるし、周りからは奇異な眼差しを向けられる。ときにはいじめの対象になることもあった。スカートを履くのが嫌だったけど、ズボンを履くことによる厄介ごとを考えたら、わたしはスカートを履いて登校することを選んでいた。

高校生になると、わたしはもう、いちいちそういうことに煩わしさを感じなくなっていた。世の中はそういうもの。わたしごときが異議申し立てをしたところで、何がどうなるものでもない。だから、いちいち反論することは控えるべきなのだ。そう思うようにした頃から、なんだか人生がつまらないものに思えてきた。がんばったところで、何も意味なんてない。どうせ女の子なんだから。だから部活もすぐ辞めた。高校では卓球部に入ったけど、顧問の先生の厳しい指導についていける気がしなかったのだ。

なんとなく学校に行って、帰宅部よろしくソッコーで帰宅。和人が部活を終えて返ってくるまでの間、ビデオゲームで遊んだ。洋楽をたくさん聴いて歌詞を訳した。邦楽よりも洋楽をたくさん聴いたのは、すごく自由な雰囲気を感じていたからかもしれない。語学だけは勉強していた楽しかった。高校時代に打ち込めた唯一のものかもしれない。

彼氏はあまりつくる気になれなかった。麻紀はいろんな男の子と付き合っては別れて、そのたびに傷ついたり怒ったりしていて忙しそうだった。すこし羨ましいなとも思ったけど、やっぱりわたしにはそういうことに一生懸命になることは難しいと思った。高校二年生のとき、一度だけ男の子と付き合ったことがある。でもキスも、もちろんセックスもしないまま、なんとなく別れた。結局あまり相手に魅力を感じなかったのかもしれない。悪い人じゃなかったんだけど。

そのあと、リベラルアーツとかいうよくわからない学問を学ぶために大学に進学した。というか、特別何かやりたいこともないような人が集まるのがこの学部だった。どうせこんな周辺大学のよくわからない学部にいるわたしが就ける職業なんて限られている。同世代の女子が身につけているような男ウケの良いふるまいを、わたしは拒否してオタク的に生きてきたし、そもそもルックスだって別に良くない。平均以下だ。そんなわたしが、大学を出たあとの人生に何の希望も持てないのは、当然のことのように思える。とにかく気力が湧かないのだ。大学卒業後の人生を考えるとため息がでる。

生きたいように生きた方がいいよとか、自分らしく生きなよって、そんなセリフが巷に溢れているけど、そもそもわたしは、わたしが何をしたいのかをみつける前に、生き方を与えられて、それをイヤイヤながらも選んで生きてきた。それが自分自身の生き方であると諦めて受けいれるまで、物語は暴力的に何百遍もわたしの人生にふりそそがれてきた。わたしは早々に白旗を掲げた。だからわたしには、「こんなふうに人生を送りたい!」という希望はとくにない。ただ人生に息苦しさを感じるだけ。

大学二年生の夏、麻紀が死んだ。中学生のころから付き合ったり別れたりを繰り返してきた雄太との交際トラブルが原因だという。麻紀が別れを告げたところ、雄太はストーカー化した。執拗に電話を繰り返し、彼女の家の周りにつきまとい、麻紀の新しい彼氏にケンカを売った。それに嫌気がさした麻紀は雄太に直接ストーカーをやめるように伝えるため、彼の家を訪ねた。そこで麻紀は雄太に殴り殺され、河川敷に捨てられた。麻紀の家族が警察に捜索願いを出した。彼女が発見されたのは、殺されてから一〇日以上が経ってからだった。わたしは麻紀の死を、ニュースで知った。なんて理不尽な死に方なんだろう。

麻紀は男の子と付き合うことが人生そのものみたいな感じの人で、いつもだれかと付き合っていた。そういうわけで、女子からすこぶる評判が悪かったのだけど、なぜかわたしとは気があった。考えていることも趣味もなにも一致することがない全然違う世界の住人のように側からは見えただろう。わたしだってそう思う。だけど、小学校から高校までずっと同じ学校に通うことになったおかげで、わたしたちは友だちだった。

麻紀の生き方を真似したいとは思わない(真似しようと思ったところでわたしには無理だっただろう)。でも、彼女は自分の人生を生きていたと思う。すこし男の子に依存的だったけど、自分のやりたいことははっきりと知っていた。高校を卒業したら看護の専門学校に行って看護師になると語っていた彼女は、だれかの人生の役に立ちたかった。自分の人生をどう生きていいかわからないわたしが残され、自分の人生を語ることのできた麻紀は死んでしまった。

そしてわたしは自分で自分の物語を語ろうと決意する。いままで手放してきて、どこにあるかもわからない自分の物語を探しはじめる。なにかをはじめるのに遅すぎるということはないはずだ。

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