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「トランスジェンダーとハリウッド 過去、現在、そして」を観てぼやく

自分たちで企画している学習会の資料として勧められて、たまたま観たドキュメンタリーだった。トランスジェンダーの方々で、俳優、制作者、研究者に従事する人たちのインタビューで構成されている作品。

「トランスジェンダーとハリウッド 過去、現在、そして」


この映画から知ったことは、ジェンダーマイノリティへの差別は、映画をはじめメディアが作り出したものであり、それを享受して喜んでいたのは、マジョリティ側の人間たち、つまり「ぼく自身」だったというものだ。

過去の映画にでてきた「トランスジェンダーへの差別的な表現」が、このドキュメンタリーの中でたくさん流される。過去に自分がみた作品もたくさんあり、まず、それに驚かされる。

ぼくも、楽しんでいた作品の中に「差別」は溢れていた。そして、ぼくはそれにまったく気が付かなかった。

その作品を見た時の、トランスジェンダー当事者の皆さんのコメントを聞きながら、「差別」に気が付かなかった自分を恥じた。それから、このドキュメンタリーから感じたことは山ほどあるのだけれど、言葉にするには知識が足りない自分がいる。せめて、基礎知識や歴史を知るなど、すべきことをしてから、もう少しちゃんと言葉にしたい。

「差別」は気がつかないものだし、意外と手に触れる範囲の中に溢れている。それがとてと怖い。自分の使っている言葉も、相手を傷つけてはいないか?と、不安になる。それとは逆に、不用意にぼく自身に向けられる「差別」に困惑することもある。それは、説明しても理解してもらえないことが多い。

この映画の中で、あるトランス女性の方が話していたこと。たくさんの人が自分のことを理解してくれないことへの怒りがあった。しかし、その根底にあることは、自分自身への無理解だった。自分から自分自身への怒りだった。と話しているのを聞いて、胸が締め付けらるのと同時に、自分自身の生き方を鑑みた。そして、少しだけ許された気持ちになった。

それにしても腹が立つことがある。

今回、トランスジェンダーについての優れたドキュメンタリーを観たので、それに繋がる書籍や映像はないかと検索してみると、ジェンダーマイノリティの人たちをヘイトするコメントや動画に多数ぶつかる。簡単に検索上位に引っかかる。いわゆる「あおり」の内容である。

なぜ、歩み寄れない?

と、考えるが、そう苛立つぼく自身の根底にもマイノリティへの不寛容がある。そこから目を逸らすとはできない。だって、過去トランスジェンダーへの差別的表現がある映画を観て、ぼくは楽しんでいたのだから。

知る前と知った後では、見える世界が変わってしまう。

まだ、煮え切らず、もやもやしたままなのだけれど。

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