震災に何度でも向き合うこと――大槌での日々を振り返って
2019年9月に実施された「大槌PBL」を、〈前編〉と〈後編〉にわたって振り返る本企画。
〈後編〉では、自分が直接経験したエピソードを紹介した〈前編〉とは異なり、他のメンバーの経験から考え続けたことについて書き綴っていくことにしたい。
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「僕ら、震災の影響受けてないよ。」
大槌の町で学習支援に参加する中で、私たち5人はいろいろな子どもたちと出会った。その中でもとりわけ印象深い出会いは、大槌の放課後居場所事業の場で生まれた。
学習支援に参加して2日目。一日目と同様、夕方からはコラボスクールにてミーティングを行った。それぞれ子どもたちとの関わりを通して印象に残ったことを語っていく。そんな中、放課後居場所事業に行っていたあるメンバーが、こんな話をしてくれた。その日、ある小学生の男の子の宿題を見ていると、男の子は「わざわざ(大槌町に)なんで来たん?」と問うてきたという。まさか「震災があったから」「被災地だから」などと言うことはできず、曖昧にごまかして返答した。しかしそんな大学生の複雑な胸中を知ってか知らずか、男の子は続けてこう言った。
「僕ら、震災の影響受けてないよ。」
それはその男の子からしてみて、なんの嘘偽りもない、素朴に浮かんだ言葉だったに違いない。しかし、その言葉を投げかけられ、当該のメンバーはじめ私たち大学生は、立ち止まらざるを得なかった。
震災とか被災地とかいった概念は、まさに私たちが大槌に足を踏み入れたきっかけであり、理由であり、目的だった。もちろんそれを現地で生活をおくる人たちに押し付けたいという気持ちは1ミリもない。しかしそうでなくても、「なんで来たん?」と聞かれてしまうと答えに窮する。そんな中で「震災」「被災地」という概念が、”支援をしているはず”の目の前の相手に共有されていない現実に遭遇してしまった。この支援は、一体誰のためのものなのか。「自分たちのため」という目をそむけたい答えに行き着かないよう、何度も、何度も、問い直した。
ところでこの「僕ら、震災の影響受けてないよ」という言葉、私たちにとってもう一つの意味で衝撃的であった。
それは、東日本大震災という記憶に、確かな「分断」が生まれているということである。男の子は小学校低学年。当時震災から8年の月日が経過していることを考えると、たしかに「3.11後」に生まれていることになる年齢だ。この子からすれば、地震で崩れ去った建物も、津波で流れ去った町も、写真やテレビの中でしか出会ったことのない風景なのかもしれない。そうであるならば、その「災害経験の差異」をどのように捉え、継承活動に結びつけていけばいいのか。これは、今京都で「防災教育」という継承活動に向き合うわたげプロジェクトにとって、向き合うべき問いかけだろう。「震災のときに生まれなくてよかった」という素朴な感想を持つのではなく、過去の災害の記憶を明日の災害と向き合う足場にするために。私たちが探求するべき防災教育の形がきっとあるのだと、そう思う。
おわりに:同じ問いを回り続けて
大槌町での経験は、振り返れば振り返るほど書くべきことが生まれてくる。それだけ刺激に満ち溢れていたということでもあるし、一方でまだ納得のいく言葉にできていないことばかりということでもある。書きながら、問いは生まれていても暫定解すら導き出せていないことの多さに、改めて気付かされた。
再び大槌町を訪れたならば、きっとまた多くの答えを出すことのできない問いに巡り会うことだろう。もしかしたらその問いの多くは、以前向かい合ったものと同じものかもしれない。しかし同じ問いの周りを何周もする中で、例え前に進めていなくても、以前とは違う景色が見えることだってあるだろう。「課題を発見して解決する」という行為はシンプルなつくりをしているが、肝心の課題が複雑な構造である以上、こうして何度も何度も思い出しては、咀嚼して、その深みを感得していく必要がある。
この文章を、その一歩にしたい。
(執筆:桑田湧也/京都大学大学院・修士1年)
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