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ひとつの時計・ひとつのタイムライン

はじめに

この文章は全国常設展・コレクション展レビュー企画「これぽーと」に掲載された「京都嵐山オルゴール博物館:自動人形、あるいは懐中時計に秘められた特別な時間(河野咲子・南島興)」から、これまで世界と隔絶された個々の時間を持っていた時計が、現在は高精度に同期されるようになっている、というアイデアを引用・一部発展させたものです。

ひとつの時計

2022年は日本の鉄道開業150年の節目の年だった。鉄道が開いたエポックはいくつもあるが、ここでは ひとつの時計 という概念を取り上げたい。これまでの各人・各地域がそれぞれ別々の時計を持っていた時代は、時刻に基づく物体の正確な高速運行によって大きく変容する。複数の地点がひとつの時計を共有する時代が始まったのだ。まず鉄道のオリジンであるイギリスで鉄道の敷設によって自治体ごとに異なっていた時計を共通化する必要が生じ、鉄道時間という仕組みが生まれた。この仕組みは広大な国土を持つアメリカに適応し、後の標準時の採用へとつながることとなる。日本の事情も似通っており、鉄道開業は定時法の採用(いわゆる明治改暦)にわずかではあるが先行している。ひとつの時計とは鉄道が生み出したものなのである。
ひとつになったのは地域の時間だけではない。これは鉄道網の圏内で生活する人々の肉体も同じひとつの時計によって大まかに同期されることを意味する。個人が時計を所持する必要性は鉄道に合わせる形で生じたと言えるかもしれない。ひとつの時計を実際に共有する地域と人口は、鉄道網と一緒に拡大を続けていき、そして時代とともに別な共有の回路としてラジオ・テレビが普及した。人々が共有するひとつの時計は、その口火を切った鉄道型が個人型(腕時計・懐中時計)普及の礎となり、ラジオなどの配信型へと変化した後、現代の携帯電話型(個人型+配信型による自動補正)をもってある極みに至ったと言っていいだろう。近現代の人類はひとつの時計の共有をひたすらに進めてきたのである。

このひとつの時計は、高性能なカメラを搭載したスマートフォンの普及によって写真にも紐づけられることとなった。今や内蔵したGPSやbluetoothを使って正確な時刻を取得・同期する機能を持ったデジタルカメラは少なくない。こうしたカメラ(スマートフォンを含む)複数が高精度に同期することによって生まれる ひとつのタイムライン とでも呼ぶべきものは、伝統的な紙のアルバム形式の時系列に並べられた写真の魅力を再発明する。

ひとつのタイムライン

色々と頑張って撮影したはずなのに、カメラで撮った写真を見返しても旅行全体の記憶がイマイチ蘇ってこない。写真趣味の人が旅行の写真を見返したときにしばしば起きる現象ではないだろうか。これはそうした写真のほとんどが、野良猫のアップ、石畳の間の苔、水面、良い感じの雲(ついつい撮ってしまうのだ)……というように1枚1枚独立して成立していることが多いからだ。だがバラバラの写真すべてをGoogle Photosにアップロードし、スマートフォンで撮った他の雑多な写真 ー変な張り紙の写真や、Twitterにアップした食べ物の写真ー と合わせて時系列に並べると、まとまった旅行の記録になっていたりする。1枚だけではどこで撮られたのか分からないフォトコン風の写真も、時系列の情報によってはっきりと旅行の一部へと変化するのだ。当たり前のようだが、並び方ひとつでこんなにも写真の見え方・読み方が変わるものなのかと素朴な驚きを抱かずにはいられない。前後情報が生むリッチさは、1枚1枚の写真に対する真摯さとはこれだとすら思わせるものだ。
ひとつのタイムラインは自分以外との間にも存在している。先ほど挙げたGoogle Photosでは、複数の写真を集めたフォルダ「アルバム」を招待したユーザーと共同で作成・管理できる。例えば、4人グループでの旅行のアルバムを作ったならば、その中には各々が撮ったお互いの姿が正確に時系列で並んでいたりする。これだけでもなにか新しい感じがするが、それだけではない。なんとこの共有アルバム内の写真すべてをそのまま自分のメインのギャラリー画面に追加できてしまうのである。友人の撮った写真も特段の区別なく自分が撮った写真の入る場所に混ぜて並べられるのだ。これはApple社のiPhoneシリーズでも同様で、AirDropで受け取った写真は、埋め込まれた撮影日時に従ってそのまま自分のライブラリ内に挿入される仕様になっている。結果生まれる体験は自分のカメラ2−3台による写真を1つにまとめたものとは段違いで、撮るー撮られるという一方的な関係は崩れ、カメラの向こう側にいる人、こちら側にいる人のどちらもに大切な時間の流れがあったのだと感じさせる。時系列に並んだ写真の魔力、というものがあるとすれば、それは撮影者側の時間の流れが見えることによって、カメラのこちら側にいた人の姿を浮かび上がらせるところなのかもしれない。そして複数人によるひとつのタイムラインは、比喩ではなく直接的にお互いの姿を写すことで、より強力に時系列の魔力の原理を駆動させる。

 ひとつの時計が写真の世界に生み出した思わぬ副産物。だがこのひとつのタイムラインの追及が、時系列に並んだ写真の魔力によって進んだ、とまでは言い難いかもしれない。クラウドサービスと旧来の紙のアルバムのどちらにもよりメタな欲求、つまり写真に限らず時系列に並んだものを見たいというレベルの欲求があるのではないだろうか。さまざまなSNSが投稿の表示順として基本的には時系列を採用していることと、それが意図せずして崩された際のユーザーの反発具合を見るに、時系列への欲求が写真に限られないことは明白だ。前述したスマートフォン向けのクラウド写真サービスの2大巨頭の仕様では、写真が誰の手によるものなのかという点はほとんど意識されていない。ひとつのタイムラインの中心にあるのは、個人の時間の尊重ではなく、ひとつの時計だともいえるのだ。


参考
セイコーミュージアム銀座, アメリカ時計産業と鉄道時計
池口英司(2010) , 時計と鉄道史, マイクロメカトロニクス Vol.54, No.203, pp. 22-29
日本国有鉄道百年史, 日本国有鉄道編, 日本国有鉄道  交通協力会, 1969-1974 


写真について Vol.4 に掲載中

この文章は1月中旬にセブンイレブン ネットプリントで配布予定の「写真について Vol.4」の一部です。内容の紹介はこちら
配布期間:2023年1月中旬

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