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ピンとくる、について

こんにちは。えりこです。

最近風呂も入らず帰ってきてすぐ寝落ちして、夜中に起きて絶望する…というのをほぼ毎日のように繰り返してます。
今日も例のごとく。
なので、こんな時間に書いてます。(am3:45)

前段


今日はとある企業さん主催の、まちづくりサミットに参加するため沼津に来てます🚗

各地のプレイヤーの方々のトークセッションのあと、夜は登壇者も参加者もみんな一緒に大交流会。ひとりで不安な中、せっかくここまで来たんだから、と交流会も参加してきました。

各地でまちづくりに励んでる若者たちやら行政の方やらにたくさん出逢って、いろいろ話した。
みんなそれぞれの想いがあって、そして、その想いをカタチにするべく動いている。
たくさんのすてきな人たちと熱く語れて、たのしかったです。

帰宅して今感じている違和感


たのしかったなーって余韻に浸ってるいま。
なんだけど、なんとなく心に違和感がある。
うまく言葉にできなくて、表現しようするとなんだか誤解が生じちゃう気もするけど、あえて表現すると、「心から共感できる人・話ができる人に出逢えなかった」ってことになるのかな。

言ってしまえば「ピンとくる人がいなかった」。

(偉そうにおまえどの立場からゆうてんねん、て感じですが、自由に書き綴る場なのでお許しください。)

もう少し深めると、あまり自分の本音を出し切れず、ピンとくるに至らなかった。って感じなのかなあ。

深く話をしたらピンとくる人に出逢えたかもしれない。けどそこまでの話をできなかった。という反省。

「ピンとくる」体験って結局なに?


ってことを、寝落ちから起きた今ぼんやり考えてたんだけど、
結論、「ピンとくる」体験って、すごく貴重なことなんだなって思った。

「あー!わかるー!!!」とか「うわ!これだ!!!」みたいなのって、意外にない。

そういうのって、自分の意思(これが好きとか、これやりたいとか)が、無意識でもちゃんとしてることがベースにあって、そのうえで、それとあう人とかモノとかコトとかに出逢えたときに、うまれる感情だなって思った。

意思があっても、きちんとそれを言葉にして相手に伝えて、そして相手の石も引き出さないといけないし。

こう考えると、「ピンとくる」体験は尊い。

ピンときたら、それはすごいことだ。

だから、なにかをやる理由や原動力が「ピンときたから」ってのは、曖昧でてきとうなようで、実はすごくしっかりした、十分すぎる理由なんだろうな。

ピンときたその感覚を、見逃さず、大切に、向き合っていきたいとおもった。

わたしの移住の理由


まさにわたしの移住のきっかけが、その、「ピンときたから」だったんだけど、
そんななんとなくの理由で移住しちゃって大丈夫だったのかなって、移住後、ときどき考えて不安になったりしてたんだよね。今も。

だけど、やっぱり、それでよかったんだろうな、いや、それがよかったんだなって思えた。

ここに書いた私の「ピンとくる」体験論からすると、そこに至るまでに、自分の意思がちゃんとあるってことだから、当時なにを考えて、なにに出逢って、何に対してピンときたのか、ってところをちゃんと思い返して忘れないようにしようと思う。

その、当時考えてたことは、ちゃんと言葉に残しておきたいので、また、そのうちここに書いておこうとおもいます。


いい感じにまたウトウトしてきたので、ここでおわり。
記事にするほどのことでもなかった気がするけど、まあいいでしょう。

おやすみニッポン。

えりこ

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