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伝わらない訳(ワケ、ではなくてヤク)

先日、某企業の経営者が国内外の投資家に向けて行うスピーチの原稿を
推敲して欲しいというご依頼をいただきました。
(話し方で言外の意味や印象がゴロッと変わる部分があったので
最終的には原稿チェックに加えて、デリバリーの指導も行いました)

お預かりしたのは、ご本人が日本語でお書きになった原稿と
翻訳会社が訳した英語原稿(こちらは字幕で被せるとのこと)。
それとご本人の雰囲気やスピーチのスタイルを知るために
普段日本語でお話になる様子を収録した動画も一緒に。
これらを突き合わせ、その方が日本語でスピーチをなさって
その上に英語の字幕が乗っている映像をイメージしながら
すべてがうまくマッチしているかを確認していったわけですが…

英訳に致命的な問題がありました。

と言っても、文法が間違っているわけではありません。
和文英訳の問題と解答という見方をすれば、恐らく〇がつきます。
そもそも翻訳会社が成果物として納品したものですから
そこは最低限担保されていなければなりません。

問題は「伝わらない」ことでした。
基となる日本語で書かれた原稿のニュアンスや込められた真意を
ちゃんと伝えられていない。
それはコミュニケーションとしては死んでいるに等しいです。

例をひとつ挙げましょう。
日本語原稿の中に、

どうぞ、お手柔らかに。

という一節があります。翻訳会社が納品した英訳では

Please have a heart.

とされていました。さらに逆に和訳すれば
どうか思いやりを思って(相手してください)」
とでも言いましょうか。
ちなみに某社の機械翻訳では

Please be gentle.

とされました。「優しくしてください」ですね。

いずれも「お手柔らかに」がほぼ直訳されています。
文字面だけを並べれば、これで良いと言われるかも知れません。
少なくともダメと断言できる理由はありません。

ですが。

現実に「お手柔らかに」と言うシーンを想像してみましょう。
本当に他意なく思いやりや優しさを求めていますか?
実際は軽い皮肉めいた調子を含んでいたりしませんか?
何ならあからさまに挑発する意図がありませんか?

スピーチの一節一節は、前後にも文章を伴っています。
このスピーチ全体の文脈を精緻に辿ってみれば
この経営者には相手を打ち負かす自信があって
(もしくは相手を打ち負かす決死の覚悟があって)
その意志を表現する一種の反意表現であることは明らかでした。
となればこの一節は例えば

You'll be sorry.

後悔させてやる。
あとで吠え面かくなよ。

と訳さないと、文字では真意が伝わりません。
実際にこの方にお訊きしたところ
「挑戦状的な意図です」
一方、翻訳会社から上がってきた訳のニュアンスをご説明したら
「そういう文字通りの素直な意味ではないですね(笑)」
と明確にお答えをいただいたので上記の訳をご提案しました。

これは一番分かりやすい極端な例でしたが、
このスピーチが何を目的として誰に向けられたものか?
背景やそこから導かれる文脈を意識しながら全篇を理解すれば
訳し方を大きく変えないと真意が伝わらない部分が多数ありました。
つまり翻訳会社から上がってきた訳文をそのまま使ってしまうと
意図とは大きく異なるメッセージが伝わってしまう恐れがあるのです。
これは企業が広報を目的として情報を発信する際には致命的です。

また韻を踏む、リズムを付ける、有名な古典の一節をもじる、等々
聴感よくアタマにスッと入ってくる工夫(レトリックと言います)も
字面を訳しただけの訳文では失われていることが多々あります。
訳する先の言語で同じ効果を持つ相応しい工夫への置き換えが必要です。

さらに元原稿の言語文化圏に紐付いた寓話等を引用している場合
その寓話を他言語に訳しても狙った強さでメッセージが伝わりません。

そういう場合は、訳する先の言語を使う国や文化圏で通用する
時にはまったく違う寓話を探してくる必要があります。

このようにプレゼンテーションやスピーチを外国語に訳する際は
その背景や目的を踏まえて、全体の文脈に注意を払い、
各言語圏の文化や国民性などの特質も考慮に入れた上で
時には元の原稿に囚われない意訳を大胆に行う必要があります。
これは単に訳するという範疇を超え、創意工夫を必要とする作業です。
また語学力もさることながら、プレゼンテーションやスピーチの
実践経験や知識、スキルに大きく依存します。
そのため通常の翻訳会社では追い込みきれないことが多いです。

一方、そういった工夫をいくら凝らしたとしても
話者の生来の雰囲気や佇まい、口調などを考慮していない訳文では
借り物の原稿を諳んじているような印象になってしまいます。
話者一人ひとりからコトバ以外で伝わってくるものやデリバリーを
組み合わせて考えることで、一体感をもって伝わる訳ができます。

だからこそ、なおさら、
原稿の文章をメールで送って返送された訳をそのまま使うのではなく、
ちゃんとした対話とコンサルテーションが必要だと思います。

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