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『カルテット』とcero 『Orphans』ー孤児たちの共鳴

最近amazonプライムにようやく加入して、「あれが観たいこれが観たい」という欲の赴くまま未視聴の作品を漁るはずが、結局『カルテット』を観てしまう。何故だ。

全話通して軽く30回は観ている。それでも未だに面白いし、未だに新鮮な発見がある。毎回同じとこで笑って同じとこで泣く。4年前のドラマ放映時から、私はカルテットドーナツホールの面々と共に生きている。

(ここから若干ネタバレ含みます)

『カルテット』で私が一番好きな回は9話で、ある意味物語のピークポイントと言ってもいい回なのだが、9話を初めて観た時から頭の中でずっと流れていた曲がceroの『Orphans』である。

この曲の歌詞がこだまさんの著作にインスパイアされたものであることはご存知の方も多いだろうか。高校生くらいの女の子が、バイクを持っているクラスメイトの男の子とともに逃避行をする。逃避行といっても駆け落ち、とかそういうものではない。1番では「わたし」の視点でその日の出来事が描かれ、2番では「僕」の視点で逃避行の次の日が描かれる。

1番の歌詞で「わたし」は、サービスエリアで子どものようにはしゃぐクラスメイトを見て思うのだ。

弟がいたなら こんな感じかも
愚かしいところが とても似てる

そしてその後に続くフレーズはこうである。

(別の世界では)
2人は姉弟だったのかもね
(別の世界がもし)
砂漠に閉ざされていても大丈夫

この2人には互いに恋愛感情のようなものはないのかもしれない、ということがこの一説で伝わる。でも同時に「姉弟だったのかも」というニュアンスには互いに気の置けない存在であることも伝わってくる。

ここで『カルテット』に話を戻そう。『カルテット』9話にて、真紀さん(松たか子さん)とすずめちゃん(満島ひかりさん)のこんなやりとりがある。

すずめ「わたし、よくひとりで地下鉄乗ってたから。すれ違ったことあったかも」
真紀「地下鉄で、チェロ背負った小学生と」
すずめ「ヴァイオリン背負った中学生が、改札とか連絡通路とか、隣同士の車両とか。ね」
真紀「ね」
 〜省略〜
真紀「家からちょっと離れたところに空き地があって」
すずめ「空き地」
真紀「そこにね、廃船があったの。使わなくなった船」
すずめ「へえ」
真紀「よくそこで、寝そべって、一晩中星を見たり」
すずめ「星?」
真紀「うん。そこにいるとね、そのままわーって浮き上がって、星を渡る船?になって、どっか遠くに行ける気がしてた」
すずめ「へえ」
真紀「で、軽井沢に到着したの」
すずめ「船も地下鉄も、軽井沢行きだったんだ」
真紀「あーここに来たかったんだなって。今はね、思う。もう、十分」

カラオケボックスで「偶然」出会った4人の奏者がカルテットを組み、軽井沢で共同生活をする。互いに秘密を持ち、本当の自分を偽り、それでもそこに確かな信頼関係が芽生えていく過程を『カルテット』は丁寧に描く。彼らは一人一人が「社会」という枠や「家族」という既存の価値観から外れてしまった人たちだ。似ているようでどこか違う互いの孤独を持ち寄り、「社会」や「家族」という生きていく上で向き合わなければならない(とされる)様々な事柄から、ともに音楽を奏でることでエスケープする。それは「共犯者」とも言えるかもしれないし、あるいは「運命共同体」かもしれない。私にはカルテットの4人が血の繋がりのない姉弟に見える。『Orphans』というタイトルの"Orphan"とは「孤児」を意味する言葉だ。「孤児」とは親のいない子のことである。カルテットドーナツホールの中で別府さんは有名な音楽一家で生まれ育ったセレブだが、両親との縁が薄そうに見えるし、家森に至っては父親のエピソードが4話で登場するのみである。いずれにせよ、私は『Orphans』に登場する2人とカルテットドーナツホールの4人の姿を重ねずにはいられないのだ。

あぁ 神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて
あぁ わたしたちは ここに いるのだろう
              cero『Orphans』
真紀「別府さん。あの日カラオケボックスで会えたのはやっぱり運命だったんじゃないかな」
           『カルテット』9話より

それが「偶然」なのか「運命」なのかは、きっとだいぶ後にならないとわからないものだろう。でも偶然であろうとなかろうと、人と人との間に発生した絆みたいなものは確かに存在して、その存在に赦されながら私たちはまた生きる。これからも私の頭の中で、この2つの作品は結びついて離れないんだろうな。別の世界では姉弟だったのかもね。

(2021.1.25 加筆修正しました)

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