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合理主義について

今日日、人々が合理主義や合理的な思考に執拗に固執する要因として、背景に貧困という苦しみが有るからだと私は考える。金を稼いだり、利益を得る為には無駄のない思考形態が必要であると、所謂有識者と呼ばれる人達が経済学や経営学等の学術に疎い人々又、傷心した人々にまるでそれが天啓であるかの様に使徒の顔をしたためて伝え、そうしてその託宣を盲目的に信じる人が増加しているように思われる。彼ら、敬虔な信徒達が遵奉している、ある種の自己啓発的なこの理念は、道徳的な観点から意見するならば、利益を得るには冷酷でなければならない。というものであり、現代において、道徳は必要最低限身につけておればよいという非常につましい思想である。平均的な優しさ。過半数が望む以上の慈愛は、お人好しと揶揄されそれは行き過ぎであると。然るに、彼らは人間の本質的な性質をついに忘れ、自身を窮屈な箱に押し込め、卑しい笑顔でこれぞ人類の進化であると狂気的に互いに絶叫せしめる。その形態は最早彼らがもっとも忌み嫌う、新興宗教の有様である。彼らの瞳には人間の故郷の可愛らしさ、形、色、匂い、醜悪さ、健気、素朴、その美しく朗らかなることはもはや写っていやしない。これは大変悲しいことである。行き過ぎた合理主義はこれ即ち非合理的である。
不景気や貧困は人間の純真を曇らせ、不安を引き起こし、信用を失い、失われ、醜い姿にするようである。そうして合理主義という妖婆性の亡者となりゆくのだ。けれども彼等はその哀れな性質が、所謂富持つ人々に備わったゆとりの精神とは対蹠的なものであることには関心の素振りを見せない。加えて現在の経済は、最早経世済民の形骸化した姿である故に、弱者に差し伸べられる手は鮮少かつ矮小であり、まぁ謂わば個人的には、世も末という気色である。
心に贋作のゆとりを持ち、日常の苦行に微笑し、体裁を取り繕った自然さで振る舞い、他人の大きな不幸に涙を流し、自身は決して他者と分かり合えぬ矮小な不幸の塊を抱えて下らない享楽に身を任せるよりは、殊に私のような弱き人間は、汚物は消毒と世紀末が如く火炎放射器を発射し、街を焼き払い、致死量の下等酒を鯨飲、花火を自身の身体に巻き付けて、発射砲に身を潜り込ませ、隅田川の上空で、バアァァァン!と美しき華となって人々の脳裏に一世一代の爆散死を見せつけるほうが良いのではないかしら。

兎に角、人に優しく、吝嗇とは敬遠に、身近な人々を笑わせ、どうしようもなくなったら、豪雨に打たれながら大きく泣こうではないか。
私はいつからかそのようにしている。そのような内々の闘争を続けて幾年か、この前深夜に酷く酩酊し、具合悪い思いで帰路についていたら、百円玉を拾ったよ。翌日煙草欲しさに国分寺近くのたばこ屋の戸を叩き

『すみません。セブンスターの10ミリを一つ頂けますか。』

財布の中を覗けば五百十数円とカナダドル一枚と一ペニーが一枚。消えも入りたい恥ずかしさでおどおどして、ポケットに手を突っ込み、
昨日の100円。

私の心はあの日刹那、けれども幸福に満たされたのである。

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