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Dear, the people who I haven't met yet.

まだ名も知らぬ、顔も知らぬ、私の秘密を知らぬ貴方へ、私の人間への向き合い方をこっそり教えよう。

私の求める普通が、貴方の掲げる普通とかけ離れている事は重々承知である。"普通"という言葉、言葉というよりは、これは概念と捉えるべきか、それについては、私は定かではないが、そもそも普通というものの正体を、我々は解き明かす事は出来ないだろう。私は、"普通"という概念が存在することに、どこか風変わりな一面を、世と言おうか、世界と言おうか、それらに感ずるのである。説明されずとも、皆が皆、口に出さぬだけで、"普通"の存在を認める、人間、社会、世界、家族、隣人、会社、学校、国、に対して、異常さを、感じている筈である。貴方の人生の中でも、必ず、一度や二度は、その疑問を抱えたことがある筈だ。時とすると、貴方は、今現在、"普通"の存在に首を傾げているかもしれない。
"普通"という奇怪さ。それは、"共感"のように、我々に何も委ねる事はしない。共感がそうする様な、ある種の優しさや、選択肢を持ち合わせてはいないのである。
父が、これが普通と言ったから、これは普通なのだ。教師が、これが普通と言ったから、私のした事は、異常なのだ。社会が、それが普通と言ったから、それは遵守せねばならぬ規則なのだ。
というように、普通は、未練未酌なく、我々に刃を突きつけてくる。肯定すれば、一時的な救済に凭れる事は出来るだろうが、否定すれば、待ち受けるのは、断頭式であろう。首を刎ねられて、空中で自身の胴が、ばたり、と倒れる様をみる羽目になるのである。若しくは、彼らの提示する"普通"を遵奉させようと、拷問を経て、洗脳されるか、どちらかだ。つまり、強者や同じような"普通"を信仰する人間の大群に、弱者は常々彼らの普通を突きつけられているのである。けれども、普通とは個人の中にも必ず存在する。喩えば、恩を受けたら、礼をする。これは私の中の普通だ。それを、あぁそうだ。と言って共感する者も居るだろうし、いやそんな必要があるか。と拒絶する者も居るだろう。友人であっても、親族であっても、ましてや家族であろうが、自身の普通が、彼らの普通と、全く同じような形をしているかと言われれば、そうではない。似たり寄ったり、ではあるだろうが、差異が必ず生ずるのだ。だがそれは、一概に悪いモノとは言い難い。その違いが時に我々を興がらせることもあるのだ。その逆も然りであるが。であるからして、普通とは決して集団が掲げる規則の様なモノではないのだろう。恐らくは、我々人間の持つ普通の、より普遍的な部分を、倫理や道徳などを糊にして結合させて出来たのが、組織や社会が持つ普通なのだろう。それらは法律や理念などの概念にも含まれている。依って、それらに不適合な人間があぶれる。犯罪者や、落伍者や、政治家も謂わば、社会の掲げる普通に到底追従出来なかった人間の集まりなのだろう。それもそのはずである。平均的な普通が、個人の普通とかけ離れて居なければ、それはそれで妙な話である。
普通。それはよく変化する。時代や風俗や、革命、時間に唆されて、風見鶏のようにコロコロと意見を変えるのである。明日起きてみれば、昨日までの普通が通用しないのが、普通の浅ましい所であり、興味深い所でもある。我々はいつもついてゆくのにヘトヘトなのだ。大変な、天真爛漫の子供の様でもあるかもしれない。ならば、我々は応じた所で見返りなど決して用意してはいない普通を、あまり気にかける必要はないのかもしれない。ある程度、大体で良いのではなかろうか。貴方の個性が普通によって潰されるならば、私はそんな凄惨な現場を見ては居られない。

私を知らぬ貴方に、教えたい。私の身勝手な意向を押し付けながらも、こっそりと、私の中の普通を教えたいのだ。といっても、人間関係に対する私の個人的な姿勢である。貴方が、それについて、私と似た価値観を持っていると信じてここに記そう。今回は、常体を用いて。

私が人間関係に対して掲げる普通とは、至極単純なものである。優しさを念頭に置く。それだけである。ただ、この優しさは、怒りを含まない。まず第一に、気遣い、そして警戒である。この、警戒というのは、後々に定義して、書き記そうと思う。先に述べておきたいのは、私の信仰する優しさは、決して他者のためにならぬ優しさである。自身を守るためだけの見せかけの優しさである。と言う事で有る。然れども、その割合は、優しさ以外に不純物などは含まれない。此処では、他者に全てを委ねる優しさ。と言い表しておこう。
私は常に、自身と親しい間柄にある人間の心境を出来る限りに察し、その人間が求めているであろう答えになるべく近いものを提供出来るよう、努めているのだ。謂わば後手後手の打ち手なのだ。それに、これが私が先に述べた、警戒に当たる部分である。相手にとって不利益な何かを計らずも押し付けてしまわないよう、小物臭い謙虚さを持って、警戒し、他人に接するのである。
自身が信じていた人間に裏切られることもあるだろうが、私が次にそうしないとは限らない訳であり、また気付かぬ内に、誰かを裏切ってしまっている可能性もあるわけである。その人間が自身を貶める為に裏切った。と考えるよりも、そうせざるおえない状況に居たのかもしれない。という可能性に常に身を委ねるのである。これは全く、愚鈍な理想主義であるかもしれない。故に人は、それをただのお人好しだと言うだろう。しかしそれは、お人好しの人間がこの世の中において少数派であるからなのだ。これがいつかは多数派に代わると信じて、私はこの意思を貫き続けている。楽観主義者は安易にそれを、行き過ぎた愛情と揶揄するかもしれない。だが、それもそうである。家族、ましてや他人にさえ、常々気を遣い、無償の愛を与え続けるのは、些かおかしい。いずれは、自分自身の身を保障の無い見返りによって滅ぼすかもしれない。が、それで良いのだ。それが良いのだ。それが人間ではなかろうか。近しい人間にすら優しさを与えられないのであれば、人間は人間である必要はないのである。これが私の譲れぬ普通である。信念である。業である。私にはもう縋れるものはそれぐらいしか無いのだ。漠然とした優しさしか私は持ち合わせていないのである。先述、私はこれを無償の愛と言ったが、そうでは無いだろう。これはどこか身勝手な、下心を帯びたような優しさではなかろうか。事実、私はかなり贔屓をする。自身が心地よく優しさを提供できぬ相手であれば、私は追わず去りもしない。厄介な性なのである。これは小癪な優しさではなかろうか。目的のない優しさはついには掴めるのか。見返りを求めない優しさを人間は掴めるのか。私は、これだけを探求していたい。
少し前まで私は、人間関係というものは、双方の利害の一致の上に成り立っている。というどこか愛のない合理的な考えに固執していた。気の合う友人や、恋人と集うのは、互いに気が合うという利点が有り、顔を合わせれば暫時、苦悩や葛藤から離れることが出来る。それを友愛や、愛と呼んで、空虚な多幸感に満たされているだけではなかろうかと。要するに、ぼんやりとしたスピリチュアルな何かによっては、友情や愛は成立せず、悲しくも、全て解き明かす事が可能な敷き詰められた理によって、築かれるものではなかろうかと。しかし、近頃の私は、そうでない、所謂、説明出来ぬ愛も関係も存在するのではないかと、一抹の希望の様なものを感じてしまってならないのだ。利害の一致点は少ないけれども、いくつかの、双方にとって、小さくとも重要な何かが、愛おしく、手放す事ができず、又、代わりが効かぬ時、その関係は歪ながらも少しずつ時を経て変化し、成長、彼らにとって成長した。と言える何かに、形を変える場合があるのではないかと。勿論、そうでない場合も有る、否、大半の人間関係はそんな神秘的な結末を迎える事はないだろう。双方の、今まで築き上げてきた思想、信念、哲学、又は形のない何かを、他人の為に変えるという苦行を終えなければ、咲かない花、それが先ほど述べたような良好な関係というものなのだろう。この変化、無償の愛、それらが利害の一致から外れた、非合理的な人間の奥底にある大切な何かの様に私は思える。冷え切った夫婦間にある、頼りなさげな火種が、我々が本来追い求めるべきモノなのかもしれない。などと思う事があるのだ。それは、愛着やら、執着やら、諦めやら、達観やら、そう言った理屈ではなく、"言葉では言い表せられない何か"なのではなかろうか。それは、旅中眺める、知らぬ地の趣。に近いのかもしれない。合理主義に引き摺られる哲学よりも、私はそういった、崇高な何かを追い求める理想主義者のように、温かく優しさが溢れる世界を想って酔っていたいのだ。

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