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観光と来歴考証(時代考証)

FIXさんの講座、「観光のための資源活用戦略〜ブランディングを超える発想で企業や地域の持つ資源を活用〜」へ参加してきました。この講座ですが、株式会社FIXさん(金沢の映像制作会社)が定期的に行っているもので、今までも様々なテーマで開催されてきました。異業種交流も含めて、問題解決の場を設けてくれるのはありがたい話です。

僕も信州時代から観光関係にはそれなりに関与しており、石川県へ来た現在でも「茶の湯ゼミ」と銘打って茶道のことをもっとみんなで勉強しようという会を毎月企画していて、茶の湯体験も事業として展開しているため、いまやガッツリ観光に携わっていると言えます。

さてこの講座で学んだことですが、「観光資源の多くはその場に元々あったもので、資源価値(ブランド)はつくらるものである」ことを前提に「資源価値(ブランド)は更新し続けていかなければならない」こと。それは「観光へ赴く人々(観光客)のあり方が社会の変化に呼応して同様に変質し続けている」。つまり何もしなければ資源の切り売りをするしかなく、切り売りはいずれ消費され、いずれ価値はゼロに戻ること。そのため観光に携わる人びとは何をしなければならないのか、行動指針がはっきりしたのは大きな収穫でした。

今後、体験型観光の現在からクリエイティブツーリズム(平成26年度文化芸術創造都市推進事業成果報告書参照)の未来へ変化しなければならない観光の資源化に歴史・文化は必須項目。文化という表現が曖昧ですが、暗黙知みたいなものと考えればわかりやすいですね。歴史はその暗黙知を伝えてきた蓄積の記録。暗黙知だから「知りたい」という人の欲求も発生し、観光につながるという考え方。サービス開発にしても商品開発にしても、歴史文化を軽んじていては、次のステージに置いてけぼりにされてしまうことがありありと見えています。
※観光の仕組みは下図を参考に。

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↑(観光の地域ブランディング―交流によるまちづくりのしくみ.敷田 麻実, 内田 純一, 森重 昌之.学芸出版社.2009/8/31)/参考作図。

①〜③は民間が得意な分野で、④はほぼ行政しかできない分野。「ことほむ」は①〜②で戦略を練ったり情報を収集したりまとめたり。その情報をもとにパッケージデザインをしたり、ツアーパックを考えたりします。ちなみに和雪庵は③に相当します。①〜②の部分は家元が基礎的なことを行ってくれていますが、足りない部分を「ことほむ」で補っているイメージです。

ちなみに、来歴考証・時代考証って?

和雪庵のような「茶の湯」に関することなら、過去の茶書を調べ茶会の室礼を整えるといったことで来歴考証をする場合があります。時代考証とは、当時とは同じ物が手に入らないため、現代で入手可能なもので代用するのですが、それが過去のものとどのくらい「ズレている」のかを把握するために行います。その結果ズレが大きくとも、そもそもの意味がズレていなければ問題ないと判断できるわけですし、来客に対して説明もできます。

これを観光に当てはめてみた場合、温泉地の開湯伝説がわかりやすい例です。温泉地の多くは天平年間(奈良時代/皇紀1390年頃〜/西暦730年頃〜)の行基菩薩によって開湯されたと観光案内の来歴には書かれています。実際には資料は少なく、薬師信仰の広まりと共に温泉地も広がったであろう推測も多分に含まれていると考えても良いわけですが。このように来歴に関しては過去調査の内容を洗い直したりすれば、また正確な表記ができるようになります。しかし奈良時代から現代の温泉地のような建物が並んだ「町」になっていたわけではありません。少し話が脱線しますが、以前調査した来歴調査の一部を簡潔に書き記しておきます。

当時「木板を作る」ことは非常にお金がかかること。当時はまだ道具が普及しておらず、2人で縦挽きができる“大鋸”と呼ばれる道具は室町時代まで登場しません。それ以前は”木挽”といわれる職能者が横引き用の1人で扱う大鋸で製材しており、非常に効率の悪いものだったのです。当時の職能者は国政者の管理下でしか存在していないため、平城京(奈良)のような大きな国政を行える都内くらいしか板張りの建物は作れなかったはずです。実際は薬が買えない庶民層や薬が効かない人たちの病気治療・療養場所として行基集団が薬師信仰とともに開いた場所だったのでしょう。露天にむしろなどを敷き、ほぼ終の場所としての様相だったと想像できます。黄泉や地獄信仰とも重なっていることからも、そう外れているとは思っていません。

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上図は湯田中温泉の来歴を調査した際にまとめたレポートです。室町時代に渋温泉寺の記述がある古文書が複数存在することから、少なくともその周辺で温泉が湧いていたのだろうと推測が成り立ちました。その後古地図を調査したのですが、田中村の地名が掲載されるのは元禄年間だと判明します。地図は江戸時代、幕府令のもと作成されるものなので、よほど小さな村落でない限り、地名から落とされるということは考えにくく、逆に落とされている場合はそこには何もないか、近隣の村と同一とみられていたか。いずれにしても江戸前期の高度成長時代に「田中村」が整備されたのでしょう。この頃農村だったのか上州へ抜ける街道町として整備されたのかわかりませんが、江戸時代、参詣とならび湯治目的であれば旅に出られるようになったため(参考:温泉情報の流通からみる江戸後期の「湯治」の変容に関する研究)、上州草津温泉へ抜ける街道の志賀高原を超える直前にある渋・湯田中温泉は、このころから温泉街として発達してきたと考えても良さそうです。

考証を活かした観光資源のリブランディング

温泉の来歴調査例をあげましたが、こうした調査をもとに観光資源のリブランディングを考えることも大切です。来歴をそのまま看板に記すだけでは資源に意味付けができません。観光資源は意味づけられて初めて価値を見出します。渋温泉の場合、露天風呂に浸かる猿によって”Snow monkey”という名称で海外に広まりました。湯田中温泉も隣接温泉地なので、この恩恵にあやかっています。しかし温泉地本来の資源価値は少なくとも”猿”ではなく、その歴史と文化でしょう。室町時代から続くもの、江戸時代に変わったものそして現代へ紡がれるもの。これらを総合的に見直し、江戸時代に佐久間氏が何を考えて領地開発し、それ以前の姿と役割、根底をなす薬師信仰とは何なのかを掘り下げて行くことで江戸時代に何があったのか、その価値観が浮き彫りにされてくると思っています。

それらを元に、コミュニケーションの手段としてパンフレット制作などではなく、伝統工芸・農民美術(民芸)とアート表現やサブカルチャーなど現代の表現と結びつけて広まる仕組みを考えていくことも一つの方法と考えています。ただ安易に芸術祭を開くのだけはやめたほうが良いと進言しますが。


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