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早稲田卒ニート73日目〜主体の宿命的パラドクス〜

「主体的・対話的で深い学び」と言われても判然としない。その実態を知らないからだ。それに私はグループを作って積極的に協力し合う学習よりも、長時間黙ってただ話を聞き続ける授業の方が何百倍も学びが多かったという経験しかない。何であれ、この「主体」という言葉は前向きなイメージを持つ言葉であるが、むしろそれゆえ私の様なニートにはうしろめたい思いを来さずにいない。



「主体」の理念をひとたび設定するや否や、人間は主体的に生きているか、主体的に生きるにはどうすればよろしいか、人は主体的であるべきだろうなどといった「主体」の尊重が登場する。

「主体」であるためにはやはり、自ら進んで何事かを行わなければならぬし、熱中し夢中にならねばならないだろう。それは、「主体」という目標に向かったひたむきな努力である。その時、「主体」を目指す個は決して歩みを止めてはならず、断続的な前進が要求される。仮にその努力を停止してしまおうものなら、「非主体」として怠惰の烙印を押されることを免れまい。

しかし人は、「主体」に向かっている限り「主体」ではあり得ない。そこに辿り着く道のりの途中を進行しているまでである。それゆえこの歩みは、いつまでもゴールに到達しない。つまり、私が「主体」になろうとする限り、私は常に「主体」に「遅れ」を取っているのである。さらには、遅れまいとして走り続けることで、かえってその「遅れ」を維持し続けることにもなるのである。しかし近代社会が「主体」の集合によって構成されている以上、私たちはこのパラドクスから逃れることが難しい。ただし、この「遅れ」こそが、次なる一歩への推進力となって近代社会の発展を支えてきたことも決して否定し難いことである。

日本の近代化は西洋化である。それは、西洋という「他者」に一体化しようする、言わば「模倣」の自己形成である。そこでは西洋という進んだ文明を近代の象徴とし、それを目標に進歩を続けた。即ち、日本の「遅れ」を前提として、西洋に遅れまい、西洋に追い付かんとしたのである。そしてそれがゆえにまた、西洋に追い付こうとしている限りは西洋に「遅れ」を取り続けるという「主体」のパラドクスを引き起こす。しかしやはりその「遅れ」がなければ、追い付こうとする推進力も生まれてはこなかったに違いないのである。



流行という現象が世間には起きる。タピオカだろうとチーズハットクだろうと興味は無い。そもそも流行と言われて真っ先に思いつくのがこれくらいしか無いところに、私の「遅れ」があるかも知れない。とにかくフードでもファッションでも、流行とは「新しく進んだもの」である。報道バラエティなんかでも、「この夏の最新アイテム」などという言葉使いのもとに、それは「最新」として時代の先端を走っているらしい。

人は流行を取り入れる。タピオカ店に行列を作ってはInstagramに投稿したり、「マストアイテム」を身に付けては皆が似たり寄ったりのファッションを着飾る。流行を取り入れるとは、「最新」という他者との一体化である。そしてそれをある世代のある程度の人々が一斉に取り入れるとするならば、流行を取り入れることは、「大衆」との一体化でもある。それは翻って、個の埋没を意味しよう。しかし、流行には、「乗り遅れる」ということがあるらしいから、一般大衆はそれに遅れまいとして、自覚もないうちに「主体」のパラドクスに連れ込まれる。流行りは廃りと共に生成消滅を繰り返すから、そのパラドクスに一度足を踏み入れると、脱出するのが困難になる。

私など、靴さえまともに履かず下駄を履くくらいであるから、それはそれは相当な「遅れ」を取っていると言わざるを得ない。しかし私はその「遅れ」を自覚しているわけでも取り返そうともしていない。ここでの私は「主体」から解放されてあろう。

世間的な流行も日本の近代化も、構造的には大して異なるまい。いずれも進歩のシンボルに向かって、その文化や文明を受容することで前進し続ける。その「主体」が国家であるか個人であるかの違いである。



主体には、本質的に課せられた「遅れ」が内在している。私が「生徒主体」を掲げる教育を嫌うのは、それが「主体」に伴うこの「遅れ」を問題から無視した欺瞞だからである。そもそも、教室で教師と生徒が向き合っている以上、生徒が「主体」であるならば、教師は「客体」であるはずだ。「客体」なき「主体」などあり得ぬし、「主体」なき「客体」などあり得ぬからである。が、では「客体」としての教師とは一体何であろう。果たして、それをよく考えてくれている人が在るのだろうか。ひょっとして、生徒を「主体」に祭り上げたはいいものの、それと関係付けられるはずの「客体」としての教師を想定してなどいなかった可能性があるのだろうか。

恐らく、あると見なければならない。同じ様なことが読解における言説にもあるからである。それは、「客観的に読む」ことが「主観の排除」によって達成されるという見方である。「客観」なき「主観」も、「主観」なき「客観」もあり得るはずがない。それなのに、「主観」を限りなくゼロに接近させるのに従って、それに取って代わる様に「客観」が徐々にその領域を拡大していくという誤解がある。本来、毅然とした「主体」が立って初めて、その向こう側に「客体」も存立し得るのである。もし、「主観」を一切排除したとしてもそこに共通の理解が得られるものとして「客観」を想定しているならば、それは「客観的」ではなく、「超越的」とでもいうべきである。

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