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『「仮面浪人説話集」(生方聖己とされる)』 第6章



興味がある人は読むべし
興味がなければ読まざるべし

⚫️ センタープレ模試の詳細と計画と余談

「英語」
この時は168点。今まで約9割はいっていたので焦ってもいい点数である。ただ、参考書の進み具合も特に問題もなかったし、まあちょっと調子が悪かっただけ。本気でセンター対策を始めれば敵ではないでしょう。簡単だし(“参考書、3周すれば必ず全部身につく方程式”が英語において決壊したことはなんだかんだ一度もなかった)。あとはシンプルに行ける気がした。ただそれだけである。



「国語」
この時一番ひどかったのがこの国語。確か110点くらいだった(笑) 。やはり3段階目が来ても全くおかしくなかった。時期も時期だし。まあこれが結構やばかった。どちらも全く手ごたえを感じることはできなかっ た。ここでは高校生必修の第3言語”古文“から話を広げていこうと思う。

「古文は1カ月あればできるようになりますよ。」
古文に精通している人が放ちがちなこの言葉が完璧な嘘であるということを完全に理解するのには余り時間を要することはなかった(勿論、 他の誰でもない”自分“にとって、という条件付きで)。それは現役時のセンターが終わってから明治大学の一般試験が始まる2週間に初めて古文というも のを本気で見た時に理解した。全くもってこれは外国語に等しいことを理解した。同じ文字を使って創られた全く別の国の言葉。英語よりたちが悪い。
浪人開始を決意した際には、英語、国語同様コツコツやっていくことがすぐに決議された。そしてそれと同様に、古文を、国語というくくりから外し、新たに、配点の低い”第4の教科“として認めることも決議された。勿論、”自分”にとってね。だからこつこつやった。でも途中で気づいた。あまりにも古文を読解するセンスを自分は持ち合わせていない、ということに。
古文単語、古文常識ほど信頼できないものはない(特に物語)。 でもそれくらい作品の背景を知らなければ全く話にならないということを幾度も経験した(特に物語)。だから、とりあえずできるだけ多くの作品に触れるという足掻きを本番ギリギリまで行うことは浪人生ということもあってしようとは思ったが、センター古文はやけに難しいという事実も相まって、いざ本番で初見の問題が出てきたらある程度は諦める覚悟はできていた。

センター本番の目標は全部で9割。日本史10割、英語9.5割を取る予定だったので、国語は最悪7.5割までコケられるという算段だった。『「現代文読解力の開発講座」〈霜栄〉』と親友になることに成功したため、現代文で8.5〜9割取ることはほぼ確実。んで、いくら初見といっても50点中25点は取れるだろうと踏み、漢文はなぜだか知らないけど50点中45点は取れる気がしていた。ちなみに漢文は後回しにしすぎてこの時はかじってもいないというレベルであったが。なぜいける気がしたかというと、「漢文はすぐ点を取れる、古文をやった後だとすんなり入る」と多くの人が言っていたから(=同じ過ちを犯すタイプの人間)。だから漢文もひどい点数だった。

では肝心の現代文は?というと、これもこれで7割と、あまり、というより全然よくない。言ってることが違うじゃないかと思った?いや違うんだ。「センター本番の現代文と模試は全く答えの導き方が違う」。自分が知っている受験会に蔓延る巷の噂の中で数少ない事実として認められている一文だ(しつこいようだが、勿論認めたのは他でもない“自分”である)。
皆さんは今まで取り組んできた現代文のテスト(小説を含む)で間違えた箇所に対して、「現代文なんて自分がこれだと思ったものが正解ではないのか?そもそもこの問題をこの文の著者に解かせたら満点をとれるのか?」という疑問をいだいたことがあるだろうか?それがその問題に対してどれだけ時間をかけて深く考えようが、一瞬で終わらせようが関係ない。皆がどうかは知らないが、自分は浪人になって現代文という”教科“に取り組むまで飽きるほど思ってきた。自分の思考をなぜ他人(採点者)に評価されなくてはいけないのか。
始めた当初は、点という結果を得るために渋々自分の思考をあちらに合わせていたのだが、やっていてすぐに気づいたことは、現代文は、“現代文という名の事実探し教科”ということである。世間的に言えば、“客観的に物事を捉える”といったところだろうか。客観的とは、どんな誰が見ようと、例外なくそれはそれであるとい うこと。残念ながらこのことは、文化によって大きく左右されてしまうため、 今地球に存在する全人間に支持される客観的事実は存在しないと思われる。だからよく、自分は文系科目が苦手であると主張する人の「数学は絶対的な答えが存在する。国語は答えが曖昧である。」という意見を耳にするのだが、国語も一種数学的要素があることは否めない。周知の事実で言うまでもないが。そして、現代文を通して身に着けた事実を正しく把握する力は、“受験勉強”という枠を通り越して今の自分にも役に立っている。 やはり役に立つと書くと語弊がある。なぜなら事実を把握するということが全てのことに効果的に働くと限らないからだ。だから訂正させてもらうと、“自分の趣味を発掘した”。つまり自分の生活を少しばかり豊かにしてくれた。事実を探し当てることが割と好きであるのかもしれない。自分は。
話を戻すと、センター試験国語とは、この“事実探しゲーム”という点において非常によくできたものである。例外はほんのたまにあるが、ほとんどの場合は非の打ちどころが無い。さすが、事実探しの天才達が集まって1年間じっくり創りあげているだけある。別に尊敬をするということはないが本当にすごいと思う。それに比べて“模試”というものは、センターほど手も時間も込んでいないので、証拠不十分な問題が多々存在する。そして彼と親友になって以来自分の事実探し能力はより洗練されていたため、識別することが結構な程度で可能になっていた。このような点から、現代文の点数が7割でも特に焦ることはなかった。

国語はこんな感じかな。
(ちなみ に書いていて気づいたのだが、「センター試験国語とは〜多々存在する」の部分は『きめる!センター現代文』著者の舟口明氏の言葉を丸々引用していたため、自分の意見でない可能性があるのでご注意を)


日本史のお話は長くなるのでまた明日。





第7章へと続く…

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