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『「仮面浪人説話集」(生方聖己とされる)』 第8章



ここで、私の人生において欠かせなかった存在を時代ごとに振り返って
いこう。


0歳〜5歳 親・恐竜・プラレール・トーマス

5歳〜11歳 LEGOブロック(大震災の際に9階に住んでいたため、すべて崩れ落ちてそれ以来やる気起きず)

11歳〜12歳 サッカー・戦国

12歳〜15歳 (*2)LINE・nanoblock(中2の時一瞬だけ)・戦国

15歳〜18歳 サッカー・戦国

18歳〜19歳 サッカー・受験というよくわからんもの・参考書・ コピー機・ホワイトボード・批判的な眼・戦国


って感じなのだが、お気づきのように、あの日なんとなく見ていた“歴史の戦場カメラマン番組”に出演されていた独眼竜を観てから今に至るまで、“戦国”という存在は、我の中に深く宿り続けてきた。その居住期間はサッカーをしのぐ。“存在の大きさ”という観点からしたら、さすがにサッカーといい勝負であるが。


↑探したら発見した。残念ながら政宗の回は見つからなかったの
で、代わりに大坂の陣の回。
「家康さんの会見が始まります。」・・・中々のパワーワードである。


(*2)LINE・・・利用者が相互にこのアプリをインストールいておけば、通信キャリ アや端末を問わずに複数人のグループ通話を含む音声チャットが可能である。(Wikipediaより)

LINEの出現によって、生き方を変えられた人間は一体何人いるだろうか?
ここからは完全なる固定観念に基づいてキーボードを打つので、注意して聞いてほしい。
西暦1999年にこの世界に生を宿してから今日この2020年までになんとか生きながらえてきた自分が唯一経験したパラダイムシフト。それは間違いなく、人間破壊兵器:“LINE”である。
その”兵器“が、自分の商圏に流通し始めたのは中1の冬。当時はガラケーで、1日で多くても何件という単位で友達と連絡をとっていた自分に、何やら聞きなれないwordが耳 に入る。「LINE」。いったい何だろうそれは。とりあえずそれについてわかっていることは、主に高松中サッカー部で流行っている連絡手段の1つ。噂によると、”集団で一挙に連絡ができる“という点が従来のメールと違う点であるらしい。サッカー部の仲間に後れを取らないように、お年玉の7割ほどを持ってLABI1高崎にてiPod touch 5を獲得。すぐさまLINEをインストール。これはすごい!!なんて楽しいんだ!!ガラケー勢から変わったばかりで最初は少し操作に慣れなかったが、若かったのですぐ使いこなせるようになった。当時学年グループをつくった際は全部で190人近くいるうちの20人だけ。ただ当時自分は、1年もし ないうちに利用者が増殖する事を確信していたし、実際そうなった。初期メンとしてLINEでマウントを取った自分は、LINEを使って豪遊していた。あの時は本当に楽しかった。 ただ残念ながら、人間に恩恵をもたらす人工物は、その分必ず人間に損害をもたらすという両義性を孕んでいる。そしてLINEは、自分に与えた恩恵の倍の損害を与えてくれた。 そして、同じような目にあった者も何人も見た。ただ自分は、この時期にLINEを始めたからこそ今の自分があり、まだサッカーを第一線で続けられている。 つい身内ネタに走ってしまったが、本当にLINEほどこんなに急速なペースで一世を風靡した、し続けているものを見たことがない。これは、人類が初めて火を操ったとき、道具を持った時、18世紀にはじまった産業革命に匹敵するものだと思っている。



本当に“あの日”以来、我は武の心を宿し続けていたようだ。

100均の刀を買い漁ってはそれをひたすら振り続け、すぐ壊れるのでより強度の高いのをベイシアで買ってはそれをひたすら振り続け、暇があれば戦国無双に内蔵されている武将辞典をひたすら読んでいた。さらに、段ボールで甲冑を作ってはそれをひたすら着用したり、道端や森に落ちている形の良い長い棒を見ては見過ごすことができずにそれをひたすら持ち帰ってみたり。100 均の刀の残骸で弓を作り、割りばしを何重にも重ねて矢を作ってひたすら飛ばしたり、京都の修学旅行で貰った扇子を立てて那須与一ごっこをひたすらやったり、親戚から貰った高校入学祝い金が全て親の手へ渡る所を、「頼むから1つだけ好きなものを買わせてくれ」とひたすら懇願して念願の居合刀を手に入れたり。練習後、サッカー部の友達に冬の用具倉庫大掃除の時に出てきたコーナーフラッグのプラスチック製の長い棒を持たせてひたすら一騎打ちをしたり、部室にあったビール瓶の空き箱を重ねた上に目を閉じて座りながら関ヶ原に降り立っていた大谷吉継にひたすら成りきってみたり、今度はその棒を横に持ち替えて、部室の窓からひたすら注意深く銃口を敵陣に向ける雑賀孫一を宿してみたり。高3の最初、腰椎分離症によって全く動くことを禁止されていた時期の何かの授業中に、あまりにも暇すぎて無心でひたすらに高強度な割りばしの矢を何本も作ったり。自分は1番後ろの端の席で、隣と斜め前の仲の良かった女子の友達は優しく見守ってくれた(『本当にあった怖い話』より抜粋)。現役時の勉強の合間に気分転換がてら図書館から歩いて10分くらいにある高崎城跡の周りをひたすら歩き周り、徳川忠長(家光の弟で高崎城で自害した)の悲痛な思いを汲み取ろうとしたり。浪人時の10月くらいにお茶の水で行った駿台模試の結果が思ったより良くて、模試後にやる予定であった勉強をほったらかして江戸城桜田門まで歩き、「おそらくここで 井伊直弼が浪士たちに暗殺されたであろう」点に立ち、井伊直弼の無念をひたすらに哀れんだりと、挙げるときりがないが、こんな感じで生きてきた。

 (*)この一連の文には、冒頭に「自分でいうものではないが」と入れていただけるとありがたい。





第9章へと続く…

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