伊良子清白『漂泊』座談会議事録

 12月20日、部室にて座談会が行われた。テーマは伊良子清白の『孔雀船』より「漂泊」、4人の部員で1時間半に渡って詩について語り合った。

 そもそも伊良子清白とはどういった詩人だったのだろうか。伊良子清白は1877年に鳥取に生まれ、医者をする傍ら詩作を続けた詩人である。生来の漂泊癖により、どこにいたのかわからない時期もあるほどだという。時代としては萩原朔太郎より10歳ほど年上であり、「漂泊」が発表されたのは夏目漱石『坊ちゃん』と同じ年である。こう書くとなんとなく伊良子清白が生きた時代の空気感が伝わるのではないだろうか。

 口語詩を確立させたのが萩原朔太郎ということになっているから、伊良子清白の「漂泊」はそれより以前の、文語体で書かれた詩ということになる。以下に全文を掲載する。


漂泊

蓆戸(むしろど)に
秋風吹いて
河添の旅籠屋さびし
哀れなる旅の男は
夕暮の空を眺めて
いと低く歌ひはじめぬ

亡母(なきはは)は
處女(おとめ)と成りて
白き額(ぬか)月に現はれ
亡父(なきちち)は
童子(わらわ)と成りて
圓(まろ)き肩銀河を渡る

柳洩る
夜の河白く
河越えて煙(けぶり)の小野に
かすかなる笛の音(ね)ありて
旅人の胸に觸れたり

故郷の
谷間の歌は
續(つづ)きつゝ斷(た)えつゝ哀し
大空の返響(こだま)の音と
地の底のうめきの聲と
交りて調(しらべ)は深し

旅人に
母はやどりぬ
若人に
父は降れり
小野の笛煙の中に
かすかなる節は殘れり

旅人は
歌ひ續けぬ
嬰子(みどりご)の昔にかへり
微笑みて歌ひつゝあり

 五七調の荘重な調べが印象的な詩である。寂しい旅先の小野で、懐かしい故郷の歌を歌ううちに、遠くで鳴る笛の音、自然の声が混じり合い、ゆっくりと父母と結びついた故郷が温かく思い出される。旅人は幼い頃の故郷と父母の姿を胸に、微笑みながら歌い続ける。どこまでも寂しい情景に対して、旅人の胸に次第に起こってくる温かい故郷への慕情が印象的な一編であった。

 文語詩を読むと自然、「どう読むか」というところが口語詩を読む以上に焦点になってくる。詩を「読む」とは一体どういうことなのかという問いにぶつかることになるのである。ここで示唆的なのは、伊良子清白の唯一の詩集であり、「漂泊」の出典である『孔雀船』の小序に寄せた言葉である。


“この廢墟にはもう祈祷も呪咀もない、感激も怨嗟もない、雰圍氣を失つた死滅世界にどうして生命の草が生え得よう、若し敗壁斷礎の間、奇しくも何等かの發見があるとしたならば、それは固より發見者の創造であつて、廢滅そのものゝ再生ではない。”


 「奇しくも何等かの発見があるとしたならば、発見者の想像であって、廃滅そのものの再生ではない」。ここに見られるのは、伊良子清白が持つ詩を大衆に「読まれる」という意識である。こういった「読まれる」という意識は、新聞に文学が掲載されるようになったこの頃以降に目覚めた意識であると言えるのではないか。この一文は「漂泊」を読む上での大きな指標となった。というのはつまり、読むという行為が作者の手を離れ私たち自身に委ねられていることで、ある程度自由な読み方が許されるからである。

 文語の詩を読むのは難しい。この詩においては現代の意味と同じであろうと思われるものの、「かなし」という言葉一つとってみても、悲しい、愛しいなど、現代人にとってみるとその意味は多岐にわたる。また、この詩に登場する「故郷」という言葉。詩が書かれた当時の人々が「故郷」から想起する感情と、私たちが想起する感情は同一ではないだろう。文語詩を読む時、私たちはそういった壁に当たらざるを得ないのである。

 この詩を読んで部員の各々が感じたことが「正解」かどうかはわからない。詩をそのままに感じ取るには当時の人間でなければ叶わず、そして詩の完全な解説を求めるのならば、それはその詩そのものに近づいていくのではないか。こうした二律背反の間で、私たちは詩を読むという営みを続ける。それは時に「誤謬」の可能性を多分に孕んだスリリングな営みである。それでも私たちが詩を読むことをやめないのは、そこにある豊穣な「誤謬」の可能性によるのではないか。そんなことを思わせてくれる作品であった。

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