谷川俊太郎『渇き』座談会議事録

座談会の翌日(1月30日)に、早稲田大学小野記念講堂にて谷川俊太郎のシンポジウムが開かれる(というか開かれた)。そして座談会では谷川俊太郎「渇き」を読んだ。なんたる偶然であろうか。少なくとも私は、この巡り合わせに感謝しつつこの座談会の議事録をまとめている。

会では、詩を読む前に各々が好きな谷川作品を言い合った。詩集「クレーの天使」(講談社)や「トロムソコラージュ」(新潮文庫)が好きという人もいれば、合唱曲から知ったという人もおり、いかに氏の作品が拡散されているかを実感する。

詩は、ある者が水に渇いているところから始まる。しかし、水に渇いているのではなく、神に、愛に…というように、その者は何に渇いているのか苦悩する。この詩には、原民喜「水ヲ下サイ」と酷似する一節があり、谷川自身の戦争の記憶が表出した作品なのではという意見が上がった。しかし、神に渇くというのが非常に哲学的な問題提起にも見えてくる。ここで「作家の作品はその作品自体を見るべきか、作家の経験と融合させて見るべきか」という話題になった。戦争がテーマという見方もあれば、昭和天皇の人間宣言も示唆してるのではと言う人もいたし、失恋した後の心理的反射だと言う人もいた。

議論が行き詰まったところで、三善晃氏作曲の合唱版「渇き」を皆で鑑賞した。合唱版では変則的なリズムで煩悶を表現しつつ、「神」と「水」を何度も繰り返すことで氏の解釈が伝わってきた。合唱を聞いたことで、各が好きな音楽、ミュージシャンを語る場となり、座談会はそこでお開きとなった。

作品の見方に関する問題は解決しなかったが、これで良いと思う。谷川作品は多くの人に読まれ、作曲家はもちろんのこと画家や書家、批評家などあらゆるジャンルの人々から解釈されたことで分光していった。実際、シンポジウムでも谷川作品の多彩さ、無名で拡散される故の浸透度が挙げられ、谷川俊太郎の批評の難しさを改めて知った。

谷川俊太郎から四元康祐へ向けた詩評に「日本語ウイルスがうようよしている」というフレーズがある。それを借りるならば、我々は谷川俊太郎ウイルスに感染し、日々格闘しているようなものだろう。


文章:吉田圭佑

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