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そぞろなマニフェスト

なぜ書くのか


私はさみしいと、何か書きたくなります。

「さみしい」というのは、具体的な人間関係の不満足ではありません。
家族は元気だし、少ないけれど友達もいます。
そうではなくて、何というか、全くの「他者」に対して存在したい、認められたいという思いが募ると、私はさみしくなってきます。

「他者」という言葉を発するとき、私の心に浮かんでいるのは、社会や世間と呼べそうな抽象的な存在です。
何か広く大きなものと繋がりたい、自分のことを知っていてほしい。
そういう欲望がたぶん、「他者」の曖昧なイメージを生み出しているのです。

しかし、社会や世間は、本当は存在しないものかもしれない。
幻想のようなものかもしれない。
その幻想に対して期待するのは、むなしいことかもしれません。
それでも求めたくなってしまうから、「さみしい」。

書くことは、慰めになります。
ものを書くとき、私は読者を意識しています。
曖昧で顔も見えない不特定多数の誰かを想定しながら、彼らに向けて何かを伝えようと苦心します。
そのとき、心に浮かんでくる読者の姿が、先に述べた「他者」のあり方に似ているのです。
書くことによって、心の中の読者とコミュニケーションを試みることによって、疑似的に「他者」と繋がったような気分になれる。
それがただ気分に過ぎないとしても、どうしても書きたいと思うときがあります。

どう書くのか


以上のように、だいぶセンチメンタルな理由から書き始めたわけですが、どうせ書くなら何か面白いものを作りたい。
それが私のマニフェストです。

私は月並みな学生です。
日々の課題に胸を重くし、それをちょっとした趣味で慰めながら、ときどき将来への期待やら不安やらを思い出す。
そういうごく普通の若者の生活も真摯に書けば、そこそこ意味あるものになるのではないでしょうか。

「真摯に」というのが重要です。
それは私にとって、対価を払うことです。
記事のために時間をかけること。勉強すること。歩いて、見て、話して記録すること。
それが今、実践できる真摯さだと思っています。


「ワセダ便り」


「ワセダ便り」という名前は、19世紀フランスで成立した世界最初のコラム『パリ便り』に因んでいます。
「ワセダ」は、私にとって一番親しみのある街です。たぶん、この街について書くことが多くなると思います。

街の中の大学、喫茶店、本屋、定食屋、映画館、小劇場。あらゆるところに足を運び、そこで見ること感じること、書くことを学びたい。

それが自分の成長に繋がり、また、そうやって書かれたものを誰かが少しでも「面白い」と思ってくれれば、私の大体の目的は果たされるわけです。

どれくらいのペースで書けるかは分かりません。
更新頻度にはあまりこだわらないつもりです。
でも、生活の中には必ず「さみしい」と感じる瞬間があり、そのとき、この場所が必要になるだろうと思うのです。

私はいつでも戻ってきます。


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