死んだように歩くな。命を賭して走れ―

ドロピザのワンピース考察系に最近ハマってる。作品の謎と展開を見事に的中させる分析力が魅力のチャンネルだ。神話や世界遺産に詳しいのはともかく、作者の意図を多様に汲み取ろうとしている分析の熱量は聞いていて面白い。その熱量を感じさせない淡々とした喋り方もクール。

それ以上にその分析が間違いじゃないくらいキャラの名前や登場タイミング、地名、歴史などあらゆる存在を引用と対比で造形しているワンピースの世界観には恐れ入る。世界観?なんて言うんだろう。伏線ってほど局地的なものじゃなくて、もっと大きな流れというか、作品としてのメタ的な辻褄合わせ。

読んだときにはそこまで分析するに足る作品だと見抜けなかった。多分今読んでも同じだと思う。あれほど長い作品で、しかも週刊連載で、対比関係がそこまであるとは。しかも一つ一つのコマに意味を持たせるだけでなく、新キャラや新技の初登場シーン、情報を出すタイミングみたいな文脈にすら意味を持たせているとは。
「このキャラにこの島でこういうことを言わせたのは、対になっているこのキャラの今の心情と対比させているからで、だからこの二人は最終的に争うことになるだろう」みたいな。それぞれのキャラの個別的な思想だけでなく、全ての登場人物が物語に「織り込まれている」という設計。
漫画的人気と細部までのこだわりは直接関係しないと思っているが——大半の読者に伝わらないので——、そういう細かいところの入念さが物語全体の魅力を生んでるんだろう。

そういう作品だと分かったときに、これって何かと似ているなと思った。登場人物が作品に織り込まれている群像劇的設計は自分の好きなタイプの作品だ。

銀河英雄伝説。

中1で出会ってから自分の人格形成に大きな影響を与えた銀河英雄伝説。9巻から読む手が止まらず、10巻落日篇を読み終えた夕方は今でも覚えている。伝説が終わり、歴史が始まる。本を置いてフッと息をつき、この感動は忘れないだろう、と思った。
銀河英雄伝説でのラインハルトとヤンの対比は見事なものだった。素質は戦術家でありながら戦略家として大成したラインハルトと、戦略家でありながらそれを発揮できる立場を持たず、戦術で結果を出し続けたヤンは、それぞれの性格や専制主義と民主主義の体現者であるという枠を超えて文脈上の対比に溢れていた。
ヴェスターラントの虐殺の容認や、その結果としてのキルヒアイスの死を一生の傷として背負うラインハルトと、自身の行動に何ら責任=傷を持たらさないまま死んでいったヤンは、物語上の役割として大きな違いがある。
「嫌いなやつに従いたくない」というアンチテーゼから出発して宇宙の専制支配者として死んだラインハルトと、「民主主義の擁護者」というテーゼで戦い最終的にテロというアンチテーゼに敗れたヤン。
最終巻巻末に「キルヒアイスの死は早すぎた、5巻でラインハルトが頂上に上り詰めてから殺すべきだった」と田中芳樹が語っていて、そんなメタ思想で作られている作品もあるのか、と中学生の自分は世界の広がりに感銘を受けたことを覚えている。

確か高校の時だったと思うが、須賀敦子のエッセイ「遠い朝の本たち」という本の中に、彼女が若い頃仲間達と一緒に読み、解釈した作品に40年以上たって新しい答えを出す場面があって、ラインハルトとヤンの解釈に別視点をもらったことがあった。
性急に生きて命を落とすのは、単なる思想に過ぎない。本当に人生に参加したのは、悩み苦しみながら戦い続ける人ではないか。

多層的な人間に魅力を覚えるのは「どのレベルで自分の責任を引き受けているか」にその人の葛藤と決意が見られるからだと思うが、その点でいうとヤンはアスターテやアムリッツァの時も、同盟の滅亡やビュコック提督の死の時も、責任を引き受けているとは言いがたい。立場上仕方ないとも言えるし、作者が意図的に責任を免除しているとも言える。それと比べるとラインハルトはあらゆる責任を引き受けて、苦しんでいるように設計されている。

中学生の頃、ヤンが好きだったし、同盟の雰囲気が好きだった。でも今は帝国の方が好きだし、ラインハルトは当初思っていたよりも最強で面白くない人間ではなくて、悩み苦しみながら成長し戦ってきた人間で、だからこそ魅力のあるキャラクターだった。それに比べると、一つの思想のまま死んだヤンは、意外と責任を引き受けてなくて、作中で成長もなく、思想も若いな、と思う瞬間もある。

要するに優れた作品には全てに作り手の意図が込められているということ。作品の様々なところから意図を推測し、「そうしたならこうなるのが自然だよね」と文脈を予測し、予測があたったらニンマリし、そうならなかったら何故そうしなかったのかを考える。
そう気づける引き出しを増やすために、色んなものに触れて、パターンを知り、違和感に気づく努力をする。
そうやって深いところまで辿り着くことが作品を楽しむ方法だったはずだけど、いつの間にか最近は小説を読まなくなったし、読んだとしても意図が少ない作品たちで消費していた。なろうみたいなやつ。あれはあれで面白いけど消費的な楽しみ方には限界があるよなぁ。なんかカタルシス的な楽しみはあるけど物足りなさも感じるもん(それでも辞められないけど)。
受け手が熱量を持ってはじめて作品として意味を持つことも知ってるけど、あの頃よりも自分に熱量がない気がする。好きが小さい自分のせいか、コンテンツに溢れ、もはや暴力的に押し付けられている消費的楽しみ方に圧迫されているからなのか。

いつだって時代だよ、人を突き動かすのは、と知り合いの年配大工の方が言っていた。そんなの知らんけど。何でもいいけど全力で時代を駆け抜けたいわ。

丁寧に作られた作品というのはやっぱり分かるものなんだな。人も同じで、生きていると分かるものだ。考えていること、その深さ、熱量。あ〜、もっと深くなりたい。まだ人生の深さを楽しめてる気はしない。

(遅筆なのでこの文章を書くのに2時間かかりました)

性急に生きて収容所で命を終えたジャックは、ひとつの思想でしかない。ほんとうに人生に参加したのは、クレールを守りたいと思って彼女と結婚し、妻から手紙をもらいつづけるジャックに嫉妬し、彼が死んだあと、わけのわからない力に押されるようにして、抵抗運動にとびこんでいったジャンだ。彼こそ、より人間らしいやり方でクレールを愛したのではなかったか。あれから四十年、『人間のしるし』への、それが私の答えだった。

須賀敦子「遠い朝の本たち」(ちくま文庫) p.138p


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