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ハワイで人生のギアチェンジ

はじめましてにかえて、これまでのキャリアを振り返る

今、ハワイにいる。青い海とトロピカルな木々に囲まれたテラスで、パソコンに向き合っている。ああ、なんていう贅沢な時間。でもあと数日で「年内で退職するかどうか」を決断しなければならず、心が重い。ああ、どうしよう。
 
思えば30年前、日本を飛び出し最初に住んだのが、ここハワイだった。高級リゾート地を夢見たわけでもフラダンスなどハワイアン・カルチャーにのめり込んだからでもない。単にJAIMSという学校に通うためだった。
 
当時、憧れの新聞記者として日々、様々な事象を取材し記事を書いては「弱者・正義の味方」みたいに有頂天になっていた私も5年目に入ると、ふつふつと「このまま地方記者で終わっていいのか」という疑念が湧き上がり、以前から望んでいた国際ジャーナリストになりたくて、アメリカの大学院を受験した。英語力が乏しい私には全く歯が立たず、1年目は全滅。とにかく英語圏で言語力強化をしなければと行き先を探していたところ、富士通の肝いりで設立された社会人教育機関JAIMSに2ヶ月間の米国インターンシップというおまけつき異文化マネジメントコースがあることを知り、入学した。縁あってココ・ヘッドという高級住宅地に間借りし、毎日ハワイカイにあるキャンパスに通ったあの5ヶ月間が、国際社会デビューへの良いトランジションとなった。
 

世界を渡り歩く第一歩となったハワイの学校(現在、休校中)


あれから30年。いろいろな地を変転としてきた。なんとか拾ってくれたミシガン州立大学で修士号をとったあと、州内北部にある新聞社に職を得てキャデラックに移住。正式な就労ビザを得るため、アジア系が私以外に数人しかいない白人社会でがむしゃらに働いていたが、手違いから1年でアメリカから追い出される羽目に。その後、大学院時代から気になっていたカンボジアの独立系英字新聞に猛烈にアタック、渋々雇ってもらった。
 
ポル・ポト政権による大虐殺から20年、国連平和維持軍が去ったばかりのカンボジアは、穴だらけの凸凹道と砂埃を舞い上げながら走るバイクタクシーがやけに目につく町だった。今から思い返せば、ちびっ子ギャングのように「国際社会」を笠に着てフン・セン政権批判を繰り返していたけれど、日本の大学時代に衝撃を受けた映画「キリング・フィールド」に出てくる憧れのジャーナリストとは、似ても似つかぬ新聞記者だったに違いない。
 

国連平和維持軍UNMILの季刊雑誌とニューズレター


その後、私自身も国連平和維持軍で働くこととなった。任地は西アフリカのリベリア。採用通知の電話で首都名モンロビアを聞いた時、モンゴリアと勘違いしたほど、紛争国リベリアについてはあまりにも無知だった。それでも電気もガスも水道もない街で2年間、広報雑誌とニューズレター作りに励んだ。8週間ごとに訪れる療養休暇(R&R)でガーナに行くのが唯一の楽しみだった。心の支えになったのは、アフリカ初の女性大統領エレン・ジョンソン・サーリーフを間近で見られることぐらい。疲れ切った私は、イギリスの大学院に入り直し、休息することにした。
 

クメール・ルージュ幹部を裁くカンボジア特別法廷


長い休暇が開けると、縁あってカンボジアに舞い戻った。今度はポル・ポト派を裁く特別法廷の広報官だった。往復2時間以上のバス通勤地獄もさることながら、取材して書くことしか知らなかった私の力不足を思い知った5年間でもあった。この法廷で斬新なアウトリーチの手法、ドナーやNGOとの協力の妙技、市民への説明責任の様々なアプローチの仕方を学んだ。この間、見学者500人にブリーフィングするのも日常風景となり、人前で話すのも怖気付かなくなった。
 
残念ながら2014年、私のポストがなくなった。法廷を支える財源不足が原因だった。国連とも縁が切れ、今度はメコン川流域の開発調整機関で働いた。周辺4ヶ国にまたがる世銀プロジェクトの広報コンサルタントだった。ラオスを拠点に4ヶ国の水力発電や農業・漁業の技術者相手に、広報活動の手法を伝授すると同時にプロジェクト全体の情報発信も担った。実践メディア・トレーニングなどそれなりに面白かったが、プロジェクトの終わりが見えてくると興味が失せ、先に転職してしまった。それが最後のご奉公先である今の職場だ。

G7広島サミットのプレス会場。敵地視察でお邪魔した。

 
2018年秋から足掛け6年。コロナ渦もあり働く環境が年々変化していったが、最初にやりたいなと思っていた広報の仕事はほぼやりきったと感じている。これまで光が当たっていなかった事務所の隠れた宝にスポットを当てキャンペーンを張ったし、G7やG20で大ボスのメッセージングにも関われた。事務所の周年事業でも様々な企画を実施できた。雇われてやる仕事は、もう終わりにしてもいいのではないか。
 
それなのに、まだ迷っている。独立して細く長く社会に関わりながら、これまでの知見を共有したいー。そう思ってはいるものの、どうすれば対価をもらいつつ社会貢献ができるのか、未だはっきりしないのだ。あちこち冒険らしい経験はしてきたつもりだけれど、結局、全て雇われの身でできたこと。一人になって、いったい何ができるのだろうと不安になる。
 

テラスから海を見下ろし第2の人生に思いを巡らす


「あなたなら、できるわよ。」
 
海を見下ろすテラスで思いを巡らせていると、90代になっていたかつてのホストマザーが勇気付けてくれた。
 
あと2−3日だけ、ここで考えてみる。

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