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スマホとの付き合い方と、考えごとのお供の音声入力

ある日、すごく調子がよかった。スマホを触るタイミングを自分でコントロールしたからだと思う。

スナック菓子を食べる手の止め方がわからないように、スマホから離れるきっかけを見つけられずダラダラとSNSを眺めてしまうことが続いていたが、この日は電源を切って玄関に置いておくようにした。

スマホは電卓代わりやラジオ代わりとして、ふとしたときに使いたくなるから、こういった思い切った「隔離」みたいなことはできないでいた。

けれどよく考えてみれば、スマホを使う用事はメモをして後回しにしたり、パソコンで代用したりできる。結局、電源をつけたのは昼食前や仕事終わりくらいで、スマホを遠ざけていてもなんとかなった。


話が変わるけれど、最近、音声入力で日記を書いている。もともと喋るのが苦手で、いざ音声入力のボタンを押しても考えすぎてしまってあんまり出力できないから、自分では使わない機能だと思っていた。

でも「完成した文のアウトプットではなく、考えごとの過程を残すために喋ろう」と決めると、つらつらと話せるようになった。

考えたことが文字になると、振り返りしやすい。「なんでそう決めたのか」を書き残すことはあるけれど、音声入力だとその前の、決めるまでの葛藤や、副次的な理由、決心の温度感すら、後から読み返すことができる。

それに、思考の過程が見えるようになると「考えのどうどう巡り」がなくなって、気持ちと脳みそがすっきりする。このデトックス感を味わうために、これからも続けていきたい。

仕事でも、ちょっとだけ音声入力をしている。「原稿の作成に音声入力なんて使えない」って思ってたけど、完成した文章を書く1ステップ前に使うと便利だ。

原稿についてあーでもないこーでもないと悩んでいるときに使う。もともと考えを吐き出すのはデジタルより手書きの方が気が楽で、よくパソコンの前にA4のコピー用紙を置いて仕事をしているけれど、手書きよりも声に出してしまった方がさらに「出し切る」ことがしやすい。

書くと完成物を見ながら文章を直したくなるし、そもそも出力までに無意識に文章を整える過程がある。反対に、話した言葉は話した端から自分の認識から消えてしまうからか、「先に文章を直そう」とか「とっ散らかってるなぁ」とかいう認識を持ちづらいのかな。私は話終わるまで音声入力された画面を見ないようにしている。

話し出すと、意外と言うことがある。一人きりで音声入力していても「あ、あとね」と湧いて出てくるものがある。歴史の中で話す言葉から文字にする言葉が生み出されたことを思うと、「喋って言葉にすること」は自分が思うより奥深いことなのかもしれない。

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