夫婦別姓における議論の欺瞞

どうも、しがない京大生です。

これは私がかれこれずっと言い続けてきた議題である。講義「家族法」で初めて法律に触れたわけだが、その時からの考えである。かれこれ数回発信し続けてきたわけだが、何度も書くのも面倒だ。ということで一つまとめて書いてみる。


夫婦別姓の求めていること

基本的には夫婦別姓は良いこと、まあやってもいいんじゃないの?とされている。なぜそれを求めるのか。法務省のサイトを見てみよう。

ここではこう書いてある。

Q4 なぜ,選択的夫婦別氏制度の導入を希望する人がいるのですか。

A 夫婦が必ず同じ氏を名乗ることとしている現在の夫婦同氏制度の下では,夫婦の一方は結婚のときに必ず氏を変えなければならないことになります。
 ところが,結婚のときに夫婦の一方が必ず氏を変えなければならないことによって,(1)代々受け継がれてきた氏を大切にしたいという感情を持つ人が増えていることから,一人っ子同士の結婚のような場合に,氏を変えることが事実上結婚の障害となったり,(2)結婚に際して氏を変えることによって,本人の同一性が確認できなくなり,職業生活上不利益を被るといった事態などが生じています。
 そこで,夫婦の双方が氏を変えることなく結婚することができるようにする選択的夫婦別氏制度の導入を希望する人がいるのです。

ちなみに筆者、つまり私だが、この理由に非常に驚いている。特に(1)の「事実上の障害」、(2)の「職業生活上不利益」と言った実益的な言い方で説明しているんだな、というところ。極力個人の価値観に触れないような努力がうかがえる。まあ、そもそも何をもって「価値」を言っているのだという話だ。実益的な見方を最優先すること自体が「価値」と言ってよい。


さて、どこが欺瞞かという話をしよう。

夫婦別姓は賛成するにあたり、先に見たように
①実益的な観点
加えて
②個人のアイデンティティの問題として認識されることが多い。

①に関しては手続き上の問題であり、行政の機能と照らし合わせ、問題がなければ上手にやればよい。まあ、うちの母でさえ職場は旧姓でやっていたというし、特段の問題はない。あったとしても、解消さえされればよいという話だ。まして、②のように姓が大きくアイデンティティとして存在している以上は、「面倒だから」とかいう程度の話でいじくられても困る。むしろ②の観点から夫婦別姓を望む人々からしても、アイデンティティの軽視という観点から反対したくなるはずだ。というかしなかったらよくわからない。


問題は②である。ここからが、本題である。

「姓は強力な個人のアイデンティティなのか?」

さて、人は「姓」をアイデンティティ足りうるのか。よく別姓反対派は姓という伝統を修正すべきでないとして反発する。家族の絆しかり、家制度しかり。これは家族という共同体に個人を位置づける存在としての姓であり、アイデンティティとして重視する。

では、別姓賛成派はどうだろう。自らの姓が変わることによる喪失感、あるいは男性に支配されているというような価値観である。これも個人のアイデンティティとして姓を重要なものとらえている。しかも、単なる個人で完結するという完全な個人主義ではない。なぜなら、個人を表す記号は「名」であって、姓は共同体を指すからである。つまり、個人のアイデンティティの一部が家族という封建的共同体によって規定されていることを暗に認めている。

※そもそも、「名」であったとしても、両親(保護者)が与えるものであってそれにアイデンティティを感じるのは、共同体という囚われから抜け出せていないといってよい。が、ここでは「姓」が話題になっているので、あえてこのように書いた。


別姓賛成派による欺瞞

さて、前提として議論は「姓」が個人のアイデンティティ足りうるという話で進んでいる。(※最後にアイデンティティとして否定するフェミニストの巨匠、上野千鶴子による夫婦別姓反対論を紹介したいと思っている。)

この時、夫婦別姓派は大きな矛盾を犯している。これらを主張する人々はあくまで「個人のアイデンティティ」を主張するが、それは姓が家族という封建的共同体を表すものであって、その絆を感じさせる姓こそがまさにアイデンティティ足りうるという話は見てきた。そして彼ら彼女らはこう主張する。

「夫婦別姓の影響は子供にない」
「家族の絆と姓は関係ない」

これがまさに決定的な欺瞞と言っていい。ここまで丁寧に論を追った読者はすぐにわかると思うが、彼らはつい先ほどまで「家族の一員としての姓」の存在を肯定していたのであって、むしろそれが非常に重要だと主張していたのだ。子供や家族の絆に「別姓」が影響ないのであれば、あなた自身の姓をアイデンティティにしている理由がわからない。姓があなた方にとって重要なのか、重要じゃないのか。ここが完全に自己矛盾をきたしている。

あなた方が苗字を変える際、喪失感を感じるのはその家族(親族・氏)の一員として、「私」というアイデンティティを形成してきたのであり、それの証拠が「姓」だからである。ということは、子供や家族にとって「姓」、つまり同じ「姓」を持つことは極めて大きな意味を持つことであることを自らが説明しているのだ。

ちなみにこれがまさに背理法である。



上野千鶴子による別姓批判

まあ簡単に言うと彼女の言う価値観は、ポストモダンである。家族という価値をも超えていく、つまり既存の価値にとらわれないで生きていこうということであって、別姓とはいえ結婚制度にこだわる地点で封建的・前近代的だといいたいのだろう。これは至極真っ当である。彼女のようなポストモダン、ラディカルなリベラルは極端になる。そういう意味で、彼女のような「真のフェミニスト」は薄っぺらいリベラルなフェミニズムの欺瞞を否定しており、その意味で下記の過去記事の問題はクリアしているといえよう。

私は上野千鶴子が言う論理は当然の帰結であると考える。男女平等という本来の意味としての価値を見出したいなら、「たかがた姓ごとき」別姓にしたからといって実現できるなどと中途半端なものを肯定するべきではない。否定するときは、この世のすべてのものを否定しなければならない。これは私が繰り返し主張してきたものだ。

私の立場は変わらない。リベラルな、真の意味での「左派」「理性主義者」の限界を私は過去に書いている。これを乗せたうえでこの記事をやめようと思う。



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