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高校2年夏のアクシデント

生まれて初めての経験。
今日は僕の、ある体験を紹介していきます。

いつのお話かというと、
前の投稿で、「パラダイムシフト」の話と、その後の成長のきっかけである「野球ノート」のお話をさせていただきました。そのお話は、だいたい高校1年から高校2年の春の大会までのお話です。見ていない人はまず、そちらを見ていただきたいと思います。


まぁだいたい簡単に話すと、へたれが悔しい思いをして考えて練習したことで春の大会で初めて背番号をもらえたみたいな話です。

今日はその続きのお話です。


春の大会では、初めての背番号16をつけて試合に出ました。でも僕は、セカンドのレギュラーメンバーの象徴である背番号4しか頭にありませんでした。


その番号をつけることを目指し、僕は沢山の練習試合にAチームとして帯同していくこととなります。創部30年に満たない程度の歴史の浅い公立高校の野球部ですが、練習試合相手は非常に名の知れている高校ばかりでした。

特にゴールデンウィーク時は決まって、関東へ遠征し練習試合をすることもありました。名門のK大学付属の高校とやらせていただいたり、神奈川の強豪チームなどとも対戦しました。普段の週末の練習試合も九州内で遠征をし、甲子園常連のチームと練習試合を組んでいました。今考えれば、この経験は、自分にとってすごくいい経験になっているなと感じています。


というか、公立高校で何でこんな強いチームとばっかり組めていたのが、今となって考えれば本当に凄いなと思います。先輩方が、積み重ねてきたおかげなんだなと思います。


沢山の素晴らしい対戦相手との試合を経て、技術面、精神面で経験を積んでいき、この頃からセカンドのレギュラーとしても定着しつつありました。そして、ついに高校2年次の夏の大会が近づいてきました。誰もが、甲子園を目指す夏の大会です。
この大会に、背番号4で、それも2年生でこの番号をつけることができる可能性が大きくなっていました。



順調かと思われた、夏の大会開幕の1週間前。
まさかのアクシデントが起こりました。



バッティングマシンでバント練習を行なっていた僕は、難易度を高くするため、いつも、マシンのスピードを速く設定しました。ただ、このマシンは古く、コントロールが悪いことで部員全体に認識されているものでした。


だいたい予想できますでしょうか。
僕は、高校初めての背番号4で、憧れの夏の大会開幕の1週間前、直前に大怪我をしてしまいました。


なんと、130キロを超えるストレートが顔面に直撃し僕は、その場で倒れ込みました。軽い脳震盪が起き、左頬に直撃しましたが、鼻からは大量の出血。みるみる顔面は腫れ上がり、左目は左頬の腫れにより開かない程度に大変に腫れ上がりました。


すぐに、大きい病院へ緊急搬送され、精密検査を行いました。検査の結果は、

左頬の陥没骨折。確か3箇所は骨折していました。


その日すぐの緊急入院とまではいきませんでしたが、手術をしなければ顔が変形し、その後の生活にも支障が出ると医師に告げられました。確かに、顔面に直撃してからは、左の歯の感覚はほぼありませんでした。
モノを食べている感覚がないのです。

手術をしないという選択もできましたが、左頬が腫れて目もろくに開けられない、そして、歯の感覚もない自分に果たして、100%、それ以上の実力を夏の大会で出すことができるのか、自分のせいで先輩方の夏の大会を終わらせる可能性だってある。
僕は、そう考え、チームを離れ手術をすることに決めました。


「なんでなん。」

「なんで俺だけこうなるわけ。」

「あそこだけ目指して練習してきたのになんで、ベンチに入ることすらも許されないのか。」



僕の夏の大会は、
開幕の1週間前に終わりを迎えました。




僕の2年生の夏の大会の思い出は、なんとも悲しいモノとなってしまいました。この大会に、出られていたら、それはそれは、ものすごい僕の財産となっていたはずです。今後の人生も大きく変わっていたと思います。しかし、出る資格さえもらえなかった。


まぁ、初めての全身麻酔で、大きい手術の経験ができたことも良かったのは良かったですが、夏の大会の経験と、手術とは僕にとっては価値が全く違います。
このときは、もう本当に悔しかった。
それだけは覚えています。


しかし、得られたものももちろんありました。
それは、メンバー外にいる人達の気持ちを再確認出来たこと。Aチームはメンバー外の人達の気持ちを背負って出なければならない、負ければ先輩方の夏を終わらせてしまうという責任。これも怪我したことで学ぶことができました。これは今の大学生になってからも大きな財産になっていると思います。


結局この年の夏の大会は、予選を制し甲子園に行くこととなる強豪のK学院に負けて、幕を閉じました。




そして、僕は退院して、次の試練とステージが、与えられることになります。




僕は、野球部の「主将」という
重い責任を与えられることになったのです。




皆さんも、辛い、苦しい経験沢山あったと思います。
でも、今考えてみればそれが良い経験となったことは間違いないでしょう。でも、あの時に比べたら、と考えることで今を頑張れる。だから、悩む必要はない。そう思って、僕はこれからも挫けず頑張っていくこととします。




それでは。

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