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毒の反哺 第8話 斎藤奈津子

 娘の由奈が死んだ。私は何を間違えたのか――。

 斎藤奈津子さいとうなつこ、37歳。由奈の母親。午前中は工場勤め、午後はファミリーレストランで勤務。

 ***

6月11日㈪18:00。
 由奈が亡くなってから、ずっと頭にもやがかかっている。由奈はなぜ、死ななければならなかったのだろう。毎日ただむなしく時間が過ぎていく。
 インターホンがなる。ドアを開けると、翔太と由奈の親友の美月ちゃんが立っていた。

「おばさん、由奈に線香あげていい? 今日は美月ちゃんも一緒なんだ」

「突然すみません。かまいませんか?」

「どうぞ……」
 後飾りの前まで案内する。

「由奈……。やっぱり、死んじゃってるんだね。あんなにたくさん話せるのに……」

 涙をこらえながら美月ちゃんが写真の由奈に声を掛けている。夢の中で話をしているのだろうか。私の夢の中の由奈は、いつも悲しい眼をしていて、何も話してくれないというのに……。

「おばさん、少しは落ち着いた? まだあの日のこと、ゆっくり話す時間がなかったからさ、今日は話を聞きに来たんだ。」

「由奈が亡くなった日のこと、詳しく聞かせて頂けませんか?」

「……警察に散々聞かれて、やっと落ち着いたところなの……。もう思い出したくないわ……」

「俺達だって、つらいのは一緒なんだ。由奈は家族も同然だった」

「おばさん、私たちは由奈が自殺したなんて、どうしても信じられないんです。おばさんはどう思われますか?」

「私は……、自殺だと思ってる……。ふふっ、私が殺したようなもんね。私が追い詰めた。あの日、あの子と私は口喧嘩をしたの。そして、追い打ちをかけるように、アイツが……」

 ***
 
6月2日㈯15:30。

「ただいまぁ。あれ、今日は夕方からの勤務なんだ?」

「そう。17:00~23:00勤務。夕飯、カレー作ってるから、食べて」

「うん。ありがとう。あのさ、昨日の夜かなり遅かったよね? ……まさか、また昔の悪い癖が出たりしてないよね?」

 昨日は、仕事帰りに偶然、高校時代の友人と20年振りに再会して、懐かしくなり、そのまま飲みに行ったのだ。由奈と生きる決心をしてから、交友関係を一切断ち切るために、連絡先はすべて消去した。だから、私が友人と食事に行くのは実に10年振りだった。『由奈も明後日には18歳になるし、明日は土曜日だし、今日ぐらいはいいか』そう思って、由奈に遅くなると連絡をいれて、久々の再会と食事を楽しんだ。

 それなのに、”昔の悪い癖” そう言われて、私の中の何かがはじけ、我を失い憤懣ふんまんをぶつけてしまった。

「なによっ! その言い方! 20年ぶりに友達と会って、飲みに行っただけじゃない! 私だってね、たまには息抜きしたいのよ! それも許されないの?!」

「ごめんって。息抜きは全然いいんだけどさ、前みたいな生活になるのは、もう嫌だからさ……?」

「あんたはそうやって、いつも昔のことを引き合いに出して、私を責めるのね! 私、頑張ってるじゃない! 毎日毎日ずっとあんたのために働いて、私は何のために生きてるのよ! もういや! 子守はもうたくさん! あんたもいい年なんだから、さっさと自立して出ていけばいいのよ! もう私を開放してよ! あんたのせいで私の人生、滅茶苦茶よ!」

 最近アイツが来るようになって、余計にイライラしていた。心の奥底にしまい込んでいた小さな不満が、ひどい言葉に変換されて次から次へと出てきた。『しまった。本心じゃない』そう後悔しても、もう遅い。一度吐いてしまった言葉はもう元には戻らない。

「おかあさん、ごめんって。そういう意味じゃないんだよ。私はお母さんのことが心配で……」

 由奈が言い終わるのを待たずに、私は泣きながらドアを乱暴に閉めて家を出た。

 ***

 私は高校を卒業後、就職先が決まらず、収入のいい夜の仕事を始めた。美人ともてはやされた私にとって、天性の仕事だと思った。『煌びやかな世界で着飾って、男と酒を飲むだけでお金がもらえる』、そんな軽い気持ちで始めた仕事だったけど、実際は、コミュニケーション能力も、酒の知識も、トラブル回避能力も、他のキャストとうまくやることも、体調管理も、どれも大変で、ストレスもたまるし、大変な仕事だった。
 当時キャストの送迎をしていたアイツのことを好きになり、20歳で由奈を妊娠した。妊娠を機に結婚を迫ったけど、アイツには全くその気がなく「オレの子か?」と言う始末だった。もともと私のことなんて何とも思ってなくて、複数いる女の中の一人だったってことが後で分かった。私は仕事をやめ、実家に戻った。

 由奈を出産した時は、この世にはこんなにも愛おしいものがあるのかと震えた。この子のために生きていこうと決めた。
 でも、由奈が3歳のある日、ふと鏡に映った自分の姿を見て、ぞっとした。その鏡には23歳とは思えない、やつれて老けた貧乏くさい女が映っていた。同級生たちはきれいに着飾って、会社勤めや恋愛を楽しんでいるのかと思うと、腹の底にどす黒い何かが沸き上がってきた。
 『こんなはずじゃなかった。この子さえ産まなければ』そう思うようになった。
 
 それから、由奈を母親任せにして、夜遊びをするようになった。安月給の地味な昼の仕事をやめて、夜の仕事をまた始めるようになった。由奈が小学生になった頃、実家に居づらくなり、由奈と一緒に実家を出た。両親に自分の連絡先は教えなかった。生活は荒れ、私は由奈の待つ家に帰るのが億劫になり、時々パンや弁当を届けては由奈を家に置き去りにすることが多くなった。しっかり者だから、少しぐらい放っておいても大丈夫。そう言い聞かせた。由奈の存在を忘れたかった。夜、飲み歩いているときは、嫌なことを全部忘れた。私は『母親の役割』を放棄した。
 
 由奈が小2の時、家に3日ほど帰らず、学校からの連絡も無視していた。由奈は家で熱を出してぐったりとしていたらしい。児童相談所の人が来て、由奈を連れて行った。

 明け方、散らかった家に帰ると「おかえり!」といつもなら駆け寄ってくる由奈がいない。静かな家の中で、世界中で私一人だけ取り残されたような気がした。
 「由奈! 由奈!」私は狂ったように泣き叫んだ。ドレッサーの鏡には、涙で厚化粧がはがれた『人間ではない女』の顔が映っていた。
 それからは、何をする気力もなく家に引きこもった。孤独だった。自分勝手なことはわかっている。私は由奈がいないとだめだった。

 児童福祉課相談員の広瀬琴美さんが、うちの担当になり、度々家庭訪問に来るようになった。広瀬さんは、根気よく私の話を聞いてくれて、時には部屋の片付けも一緒にしてくれた。私は少しずつ、生きる気力を取り戻していった。由奈が帰ってくるには、『夜一人にしないこと、養育環境を整えること』等が条件として挙げられた。私は由奈との生活を取り戻すために、夜の仕事をやめ昼の仕事に就いた。夜遊びもやめ、悪い友人とも縁を切った。

 十分とは言えないけれど、養育環境が整ったころ、由奈が帰ってきた。由奈は私の表情を伺いながら、少し遠慮がちにためらいつつ、小さな声で「おかあさん。」と言った。私は思わず抱きしめた。「ごめんね。ごめんね」二人で泣いた。
 「今度こそ、この子と一緒に生きていくんだ」そう心に誓った。それからは本当に、脇目もふらずに働き、由奈との生活を守ることだけを最優先に考えた。
 なのに、またあの子を突き放してしまった。本心ではなかったのに……。どんなに後悔しても、もう遅い。

 ***
 
 ——由奈が亡くなる少し前に、アイツと17年ぶりに再会した。
 それからというもの、待ち伏せをして、夜の仕事に勧誘したり、遊びに誘ったり、馬鹿にしたり、嫌がらせをしたりしてきた。でも、誘いには一切乗らなかった。あの日もアイツは仕事終わりの私に会いに来たんだ——

 
6月2日㈯ 23:15。
 何を言われても無視して家路を急ぐ私に、アイツはこう言い放った。

「おい、娘、いい女に育ってるな」
 ニヤニヤしながら私をじっとりと見てきた。思わず足を止める。

「あんた、由奈に会ったの?」
 初めて顔をまともに見ると、街頭に照らされた嫌味な顔に、真新しい引っかき傷のようなものが見えた。

「あんた! まさか由奈に変なことしてないでしょうね!」
 嫌な予感がした。この男に対する嫌悪感が最高潮に達した。

「おいおい、仮にも俺は父親だぜー。手なんて出すかよ。ちょっと、ビビらせて、感動の親子の対面を果たしただけさ」

「このくず野郎!父親は死んだことになってるんだよ!」

「こえーこえー。母娘ともども、おっかねーの。まぁ、また家族みんなで力を合わせて金稼ぎましょ~や。あいつは金になるぜ~」
 
 油断した。アイツが由奈に会いに行くとは思わなかった。こんな日にあんなのが父親だとわかるだなんて!最悪だ!

 由奈のスマホを鳴らしても出ない。私は雨も気にせず自宅へ向かって走った。いつもならまだ起きている時間なのに家の灯りがついていない。

「由奈! 由奈!」
 由奈がいない。こんな時間に連絡もなしに出掛けるなんてこと、これまでなかった。

 『警察に電話!』そう思った矢先、知らない番号から着信があり、慌てて電話に出る。
 
「私、長栄南警察署の者です。こちら斎藤奈津子さんの携帯電話でお間違いないですか?先ほど、斎藤由奈さんと思われるご遺体が——」
 
 頭が真っ白になり、警察官の声が聞き取れない。遺体?……誰の?理解できない言葉の数々が、耳の奥でこだました——。



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