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「見る」VS「読む」。

美術館で、予期せぬ出会いをすることがある。
目当ての企画展を観たあとで、すぐに帰るのももったいないからと、常設展示をブラブラしているときに、その瞬間はやってくる。
だだっ広い真っ白な空間の一隅から、私目掛けて一枚の絵が飛び込んでくるのだ。他のすべてを押しのけて。
これは比喩ではない。
本当に、飛び込んでくるのである。私の懐に。

その瞬間を可視化するならば、少女漫画の出会いのシーン。
あれに似ている。美少年が、薔薇だか星だかそよ風だかを背負って現れる、あれだ、あれ。(昭和世代しか解らないかもしれないが)
私もヒロインよろしく、とぅくん、と胸の高鳴りを覚えてしまう。
ぶつかってきた相手に、一瞬で心をからめとられてしまうのだ。

それからはもう、私の目はその一枚の絵に釘付けだ。
他の絵は視界から消える。
もし許されるのであれば、全力で叫びたい。
「好きだぁぁぁあああああ!!!!!」と。
世界は今、私とこの絵、それだけで出来ている。

しかし、なんだか絵の横っちょに、蝿のようにたかっているものがある。
無視しようとするけれど、それは文字の形をしていて、文学ヲタクの私はどうしても読もうとしてしまう。
気が散る。うざい。出来ることなら消し去りたい。
「私と絵のジャマをしないで!!」
そう言ってつまみ出してやりたいくらいである。

無粋な邪魔者。
それが、私にとってのタイトルなのだ。

絵画と私のあいだに、言葉が必要だとは思えない。
大好きな絵に出会うと、いつもそう確信していた。
絵を見ることは、絵と私とで「素敵な場面」を創り上げる、愛の営みみたいなものなのである。
私が「なんだかパリの夜明けみたいね、ダーリン」としなだれかかる。
絵は「そうだね、ハニー」と受け止める。
そうやって、イチャイチャしているところに、タイトルは水をぶっかけるのだ。
「え、何言ってんすか、これインドの夕暮れっすよ? アホっすか? つか目、見えてますか? ここにちゃんと書いてあるのに読めないんすか?」

タイトルの持つ力は強大だ。
一度「言葉の意味」を認識してしまうと、どうしてもそっちに意識が引っ張られてしまう。パリの夜明けは霧散し、インドの夕暮れが容赦なくなだれ込んでくる。最初の印象が、どんどん書き換えられていく。

わあああ、やめるんだ、タイトル!
私はこの絵に「何が描かれているか」なんてどうでもいいんだよ。
私が感じたことが全てだ。それでいいんだ!

というわけで、私は長いこと美術館でタイトルを無視してきた。
言葉を読むのは、本の中だけでいい。
絵を見るときは黙っとれ。

そんな私だが、『絵画とタイトル その近くて遠い関係』(ルース・バーナード・イーゼル 著 田中京子 翻訳 みすず書房)を読んで、これからはもう少しタイトルに優しくしてやろうと改心した。


上下段組の352ページ。その厚さを忘れさせる面白さ。

『絵画とタイトル』は、二つの関係が中世から現代に至るまでの間に、どのように変化してきたかを考察した一冊である。
この本を読んでいると、タイトルがまるで一人の田舎娘で、その娘が己の才覚ひとつでのし上がっていくサクセスストーリーのように思えてくる。

もともと絵画にはタイトルがなかった。
なぜなら、絵画は貴族の注文を受けて描かれるものであり、観る人が限定されていたからだ。そこに何が描かれているのかを説明する必要がなかったのである。
そこにタイトルが付き始めたのは、絵画が財産としてみなされるようになってから。タイトルの始まりは、単なる財産目録だったのだ。
(タイトルを付けたのは画家でも注文した貴族でもなく、管財人だった)

絵画が資産になる、ということは、売る人買う人の流通ルートができるということだ。そうなると、目録は「売るためのキャッチコピー」の性質も担うことになる。描いてある風景について、人物について、聖書の一場面について、魅力的な言葉で買い手の心をくすぐる。そんな役割がタイトルに与えられることになった。
(この時点でもタイトルを付けるのは画家ではなく、画商であった)

産業革命により、庶民にも絵画を観る機会が与えられるようになると、タイトルと絵画の立ち位置が変わり始める。
この時代、人々の識字率も高かった。
言葉と絵画。「読む」のと「見る」。
どちらが観衆の意識に強く作用したのかというと、「読む」言葉の方だった。
人々はまずカタログに記されたタイトルを読み、それから絵画を観た。
その時彼らはこう思ったのだという。
「あ、ちゃんとタイトル通りのことが描いてあるな」と。
タイトルと絵画の内容に乖離があると、人々は猛烈に批判をした。
特に神話の一場面を描いたものには非難が集中した。
「私の知っているゼウスはこんなんじゃない!」と。
ただの目録だったタイトルが、絵画を正しく説明する物語の語り手として主導権を握りはじめたのだ。

言葉が添えてあると、絵画を視覚効果としてだけで見ることは難しい。
どうしても言葉の紡ぐ物語に引っ張られてしまう。つられる。
レンブラントの「夜警」は、実のところ夜警を描いたものではない。
(描かれた場面は夜ですらないという!)
しかし、あの絵を想うとき、私の中では夜警団が出動する前のざわめきが確かに聞こえるのだ。

恐るべし、言葉の力。

現代に至るまでに、画家たちはその力を上手く使いこなしていく。

わけのわからない詩のような長ったらしいタイトルを付けることで、観る人の意識を絵画そのものに集中させようとした、ターナー。
絵とタイトルをわざと乖離させることによって、異化の効果を生み出し、観る人を思考の迷路に誘い込むマグリット。
ヘンテコなタイトルをつけることが、己の描いた絵の宣伝効果になると知っていた、あざといクールベ。

絵画は「見る」ものなのか「読む」ものなのか。
そう考え込んでしまうくらい、タイトルは絵画と切り離せない存在になっていく。最初は単なる目録に過ぎなかったというのに。

『絵画とタイトル』、そこに描かれた歴史は壮大な叙事詩のようだ。
タイトルが、強大なローマ帝国に己の才覚と美貌で挑んだクレオパトラのようにも思えてくる。
さて、現在は両者の関係は蜜月なのだろうか? それとも?
ふーむ、これから美術館に行くときは、絵画とタイトル、両方をじっくり眺めまわして、その関係性を探るという楽しみができたぞ。
さて、今年はどの美術展に行こうかな。

最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。