シルポート_

逃げ残り

 ミニマリストな父だったから、まさか昔の手帳が出てくるとは思わなかった。黒い表紙には金色が少しかすれた「2012」という文字が残されている。四半世紀以上も前だ。私が生まれる前の記録。めくっているうちに、鈍い感触が手に伝わった。どこかのページに、不思議な厚みがある。
 指でたどりながら、その日に辿り着いた。10月の最終週。挟まれていたのは、見たことがない長方形の紙切れ。色あせた文字は、こんな言葉を刻んでいた。

 【単勝 2 シルポート】

 シルポート……? 東京競馬場って書いてある……。そうか、競馬か。競馬? あの父が?
 私は慌てて金額を目で探した。
 
 【102,200円】

 えっ?

   ◇

 秋が次第に深まりつつある最中、急な父の訃報を受け取った。自宅から実家まで中央線を乗り継いで数十分なのに、ここ最近は全く足を運ぼうとしなかった。いや、素直に帰ることができなかったと言うべきか。自分のことで精いっぱいだった。写真で食べていくと決めて社会に飛び出したが、体の良い仕事にはありつけない状況だったから。
 慌ただしく通夜と告別式は終わった。式のあれこれは母に全て任せっきりだったので、その後の身辺整理は私の役割だった。
 
 父の部屋へ、久々に足を踏み入れる。過去の記憶と、目の前の部屋は全く同じ。ベッドとデスクとタンス。それだけだ。
 シンプルなのは良いけれど、寂しい部屋だ。モノへの執着があまりにもなさすぎる。私は父からプレゼントを貰ったことがなかったし、私からあげることもなかった。父との思い出の品って、本当にこの世に存在しない。その代わり、好きな写真はとことんやらせてくれた。心配する母に対して、好きなことはやらせてあげなさい、と諭し続けた。
 デスクにはいくつかの本が並んでいる。仕事に関するモノ、歴史上の人物を追った新書、そして英字の小説……。そんな中にあった違和感。黒表紙の手帳なのに、眩い輝きが目に入った。

   ◇

 父はなぜギャンブルに手を出したのか? しかも、結構な大金。
 単純にその謎が知りたかった。私は父を知らない。特に、若い頃の話は私に一切してくれなかったし、母もよく知らないと答える。
 でも、この手帳を調べていけば、秘密がわかるかもしれない。

 1週間バーチカルタイプの手帳には、細かな文字で丁寧にスケジュールが記されている。無駄のない書きっぷりは、部屋の様子と全く同じだった。
 スケジュールを追ってみる。
 【銀行と折衝】
 【資金調達→失敗】
 【R社とアポイントも、会合の見込み無し】
 きれいな字面とは裏腹に、書いてある内容は物々しくて、切羽詰まっていた。ページをめくる手が早くなる。10月のページに入る。レースがあった月だ。
 気になる名前が目に入ってきた。
 【5日 ヤトミさん 打ち合わせ】
 【13日 ヤトミさん@新宿】
 【24日 ヤトミさん 再建計画提出】
 そして、運命の日。
 【28日 ヤトミさん@府中】

 ヤトミさん……? そう言えば、競馬場がある場所って……? まさか府中って!
 片隅に記された電話番号。かけることにためらいはなかった。

   ◇

「そうか、曽我部君はまだ大切にこれを持ち続けていたのか……」
 懐かしそうに、父の馬券と手帳を眺めている。府中本町駅の小さな喫茶店チェーンで、私は初老の男と二人きりだった。小柄で白髪、休日なのにスーツを着こなす、身なりの良い紳士が目の前にいる。
「父が競馬をしていたというのを、初めて知りました。モノやお金に興味がある人とは思えなかったので。しかも、こんな金額を……」
「そう思うのも仕方がないことよ。少なくとも、私が誘ったのが彼にとっての競馬デビューだったし、そしてきっと、あの日が彼にとって最後の競馬でもあったのだろう」
 やっぱり、競馬はあの日きりだった。
「どうして、父を誘ったのですか?」
「それを話す前に聞きたいのだけど、君は競馬を観たことがあるかい?」
 思いがけない切り返し方に、私は言葉に詰まる。
「……ないです」
「じゃあ、私と君のお父さんが観たレースを、一緒に観てみようか」
 カバンから年季の入ったスマートフォンを取り出した。これじゃないと古い映像は見られないんだよねえ、とヤトミさんは呟く。
「ゼッケンに『2』と書いている馬を、ずーっと追いかけてごらん。それがこの馬券に書いてある、シルポートという馬だよ」
 私は小さな画面をのぞき込んだ。

画像1

 霧のような雨が降っている。どんよりとした曇り空がどこまでも続いている。
 私の背後には、大きな建物がある。5から6階建てのビルで、1から2階部分に沢山の座席がある。コンサート会場の観客席みたい?
 そして、人々がこの場所を埋め尽くしている。どこを見渡しても、黒山の人だかり。私の周囲もぎゅうぎゅうだ。各々の表情を見てみると、ワクワクしつつも、どこか緊張している。
 熱気があふれている。でも、なぜだろう。今の私にはその熱気を感じとることができない。
 目の前を改めて見直して、ハッとした。芝生が広がっている。どこまでも広がる緑色が、曇り空を照らし返そうと頑張っている。もしかして、私は今……。

<競馬場へ、ようこそ!>

 声は耳から入ってこなかった。頭の中で、誰かが語り掛けているみたいで、違和感を抱いた。その声の主が、ヤトミさんだというのはすぐわかった。
 左隣を覗き込んだ。ヤトミさん……の面影がある。でも、喫茶店で会話したヤトミさんよりも、少し若さを感じる。

<どうだい、初めての競馬場、初めてのビッグレースは?>

 どうだい、と言われても……。一体全体、何なんですか? 私は今、どうなっているんですか? 私を一体、どうするつもりなんですか!?

<まあまあ、怒らないで。レースが終わったら、またゆっくり話をしましょう>
<そうだ、今日は僕と君だけじゃなくて、もう1名一緒に観る人がいるんだ>

 んっ?

<僕の奥にいる人だよ>

 素直に指示に従い、目を向けた。その横顔はヤトミさんよりも見覚えがあった。父だ。
 大きな声が出た。父の目の前に行きたかった。でも、人が多すぎて動けない。ヤトミさんが目で制した。

<残念ながら、お父さんから君は見えないし、声も聞こえないよ>

 ありったけの私の思いは、どこかに吸い込まれてしまったのだろうか。その代わりに、乾いた金管楽器のファンファーレが響き渡っていった。

   ◇

 大型ビジョンを見つめる。たくさんの馬たちがスタートを切る。そんなゴミゴミした中を、一頭だけ飛び出していく。あっ、ゼッケンに『2』『シルポート』って書いてある。あれがあの馬券の……?
 颯爽と先頭を走り抜ける一頭の馬。後ろの集団には目もくれない。差はどんどん開いていく。会場はざわめき、実況アナウンサーは甲高い声でそのスピードを讃える。
 レースを映す大型ビジョンに【57.3】という秒数が浮かび上がった。驚きの声が会場を包んだ。ところどころで、コマキいいぞ! とか、ペースが早すぎる! といった、濁った男性の声が入ってくる。ただ、その情報が何を意味しているのかは、濁りすぎていてよくわからない。

 ゼッケン『2』がカーブを曲がり終える。どうやらクライマックスらしい。音量がより一層上がっていった。レース内容を伝える、実況の声はどんどん高音になっている。
 あの馬は、シルポートは、まだ先頭を走っている。でも、最初に見たときよりも、走り方がカッコ悪い。
 馬たちが近づいている感覚があった。ビジョンから芝生のコースへと視線を移す。レース前よりも、何だか私とコースとの距離が近づいている気がした。気持ちを抑えているつもりなのに、鼓動はどんどん高まっている。
 あと少しでゴールのはず。残り200メートル! と実況のアナウンサーが叫んだ。そして、その直後、シルポートはたくさんの馬に抜かれていった。そのあとのレースがどうなったのかは、よくわからない。

 ヤトミさん、ヤトミさん。一体、どうなったんですか? 地鳴りのような歓声の合間を縫うように、私は一生懸命語りかけた。
 でも、ヤトミさんは答えてくれない。唇を噛みしめて、俯いている。
 その左隣にいた男の顔は、更に青ざめていて、生気を失っていた。こんな父の顔は、見たことがない……。
 雨は止んでいる。でも、ずぶ濡れになったかのように、心も体もだるくなっていた。

   ◇

 軽くなった瞼を開くと、穏やかな秋の夕日が広がっていた。
 今度はどこに来たのだろう……。いや、場所は見覚えがある。広々とした芝生のコース。振り向けばビルと観客席。奇麗に舗装された石畳の絨毯。ああ、競馬場だ……。
 さっきと違う点は、この場所に誰もいないということだ。私しかいない。

「いやはや、遅くまで付き合ってもらって、申し訳ないね」
 訂正。私とヤトミさんしかいない。

「シルポートは『逃げ馬』と言って、ひたすら先頭を走り続ける戦法をとる馬なのだよ。彼はその中でも際立った一頭でね、どのレースも最初から全速力だし、先頭に立ちたがるし、差を広げたがる。でもね……」
「でも?」
「疲れが来るスピードも、一番早い」

 ヤトミさんは淡々と話を続けた。
「お父さんがその当時、資金繰りに困っていたことはご存知かな?」
「いえ……。実は、父のことは、ほとんどわからないのです。自分からしゃべらない人でしたので」
「彼は昔、自分で会社を起こしたんだ。仲間たちと一緒に。ベンチャー企業というヤツだ」
「そうだったんですか。ずっとサラリーマンだと。知りませんでした……」
「ただ、流行というのは恐ろしいものでね。廃れると人々は見向きもしなくなる。やがて会社は存亡の危機に追い込まれた」
「そして、ヤトミさんにお声がけした、と」
「お父さんはギラギラした若者だった。集中力があって、ひとつの物事に必死に取り組むことができる。でも、それが彼を苦しめてしまったのかもしれないね」
 それは私の知らない、父の一面だ。

「正直に言えば、持ってきた再建計画は荒唐無稽なものだった。人間自体は良い男だし、仕事への必死さは伝わってきたんだけどね。でも、今のままだったら辛いだろうなあ、って。だから、私の役目は彼に引導を渡すことだと思ったんだ」
「引導、ですか?」
 ヤトミさんは、少し早口で言葉を続けた。
「最後の打ち合わせをしようと言ったんだ。そう、10月28日に、府中本町駅を集合場所にしてね。そのまま流れで、競馬場に連れていったよ。ガハハ」
 呆気に取られた父の顔が、頭の中でありありと思い浮かんだ。

   ◇

「まあ、お父さんは一体全体何なんだで、不満そうだったけどね。でも、最初にしぶしぶ賭けたレースが当たったからね。大分喜んでいたよ」
「凄い!」
「1番人気の馬さ。1,000円が2,000円ちょっとになったんじゃないかな」
 思わぬかたちで、あの馬券の端数の謎が判明した。
「その時に融資の条件を出したんだ。まず、10万円を彼に渡した。この金で好きな馬券を買いなさい。そして、当てたらその配当金全額をプレゼントし、更に私の会社からその配当金の倍の金を出す、と」
 優しい顔立ちからは思いもつかない、厳しくて恐ろしい大勝負を仕掛けるとは。
「まあ、10万円なんて、求めている金額と比べればたかが知れているよ」
「……で、あの馬券を買ったんですか」
 ヤトミさんは視線を少し逸らした。
「お父さんは聞いてきたんだ。『この馬の中で、一番私に近い馬はどれですか?』って。何の知識もないので、予想したってしょうがないって」
「どうして、あの馬が父に似ていると?」
「『シルポートは常に全速力で、先頭を走り続けることを信条とする馬だ。その姿が君と被るよ。最近は成績も振るわないが、ここはまさに復活の舞台。それは社の再建を目指す君の姿と、見事に合致するんじゃないかな』……って」
 ため息を置いて、話を続ける。
「でもね、私はウソをついてしまったね。あの頃のシルポートは実力的に峠を越えていたし、君のお父さんにも勝って欲しくなかった。彼は一旦、敷き詰められた現状から思いっきり逃げて、思いっきり飲み込まれて、そして諦めて欲しかったんだ」
「何だか、あのレースの通りになってしまいましたね……」
 最後のチャンスからも逃げられて、結局全てを失う。悔しさや怒りではなく、言葉を失った理由がよくわかった。

 どうしても聞きたいことがあった。
「もしも、の話ですけど」。私は続ける。
「もしも、あのレースでシルポートが勝っていたら、父の申し入れを受けていたのでしょうか?」
「もちろん。目の前のあらゆる結果を、必ず受け止めるのがギャンブラーなのだよ」
 そっと微笑み、ヤトミさんは遠くを見つめる。
「あの日の彼も立派なギャンブラーだったよ。夢破れたあと、キッパリとそれを受け入れたのだから。負けを受け入れたからこそ……」。一呼吸おいて、彼は続けた。
「勇気を出して新しい人生を歩み、そして……君のお父さんになることを選んだんじゃないかな」
 あっ、と思わず声が出てしまった。

 夢破れた時、人は色々と見失うことがある。でも、それは新しいスタートでもある。それに父は気がつけたんだ。シルポートのお陰で、ひたすら馬鹿みたいに逃げ続けたお陰で、そしてへばってくれたお陰で、今の私がここに居る。あのレースにも、残したものがあったのだ。

「いやー、今日のレースは難しかった。もうこんな時間か。寒くなってきたし、早く家で温かいコーヒーが飲みたいねえ……」
 ヤトミさんはスマートフォンをそっと確認し、ポケットに閉まった。
「これにて解散としましょうか」
 小さな風が吹いた。芝生のコースが揺れている。少しだけ、青緑色の香りが私の中に入ってきた。
「そういえば、もう一つ伝えたいことがあってね……」
 ヤトミさんはニヤリと微笑み、コートのポケットから小さな紙切れを差し出した。
「明日の大きなレースに、シルポートの血を引き継ぐ馬が走るんだ。この馬の母方のお爺さんがシルポート。専門用語で言えば『母の父』だ。まあ、勝つ見込みは薄いだろうが、長い時間先頭を走り続けることだろう。見ていて飽きることはない。香典代わりに、これを受け取ってくれるかね?」
 左手はずっと手帳を持っていた。高鳴る鼓動を悟られないように、その紙切れを右手で受け取った。
「困りますね、当たらないと香典になりませんから」
 手帳を開き、あの日のページに、頂いた馬券を挟んだ。シルポートの馬券と、隣り合わせになるように調整しながら。
 この瞬間、私の明日の予定が決まった。この場所で、あの馬の姿を、父と一緒に目に焼き付けるんだ、と。

<了>



どうもです。このサポートの力を僕の馬券術でウン倍にしてやるぜ(してやるとは言っていない)