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1939年、ソ連による西ウクライナ併合

現在のウクライナの西部にガリツィアという地域があります。ここは1918年のオーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルグ帝国)の解体までは同帝国領でした。西ウクライナの中心都市リビウ(リボフ)が位置している地域です。

第1次世界大戦の戦後処理にあたり連合国最高会議が決定したポーランドの東部国境線(カーゾン線 Curzon Line)にしたがって、1919年にはこの地域はウクライナ領になりました。この記事の画像にある青色の線です。

しかしソビエト=ポーランド戦争がすぐに起こり、ポーランドが一時キエフを占領しますが(1920年5月)その3ヶ月後にはソビエト軍がワルシャワに迫ります。しかし続いてポーランドが反撃に出てソビエト軍を撃退したところで休戦協定が結ばれます。1921年3月のリガ講和条約で、西ベラルーシと西ウクライナがポーランド領となりました。画像でカーゾン線よりも東側にある地域です。

その後約18年間、この地域はポーランド領だったわけですが、1939年8月にナチス・ドイツとソ連が結んだ独ソ不可侵条約の付属秘密議定書において、両国がポーランド、バルト3国を分割することが取り決められます。その中でこの地域はソ連の勢力圏とされました。そして実際に1939年9月ドイツのポーランド侵攻後、ソ連も軍を進めこの地域を併合します。この際の分割線は上記のカーゾン線よりも西側に引かれました。

続いて1941年6月22日にドイツ軍がソ連領に全面的に侵攻し(独ソ戦争の開始)この地域はドイツに占領されました。1942年8月―1943年2月のスターリングラード攻防戦でドイツが敗北して以降はソ連軍が反撃に転じ、ウクライナの解放は1944年初めには達成されました。

第2次大戦後の国境線はほぼカーゾン線と一致しています(画像の赤色の線)。ガリツィアの東部はポーランド領、西部はウクライナ領とされました。このときにウクライナの今の国境線が画定したことになります(ただしクリミア半島は当初ロシア領で、1954年にウクライナ社会主義共和国に移管)。

さて、1939年9月のソ連による西ウクライナ・西ベラルーシ併合の際、当時のロシアの代表的な中世史家であったB. D. グレコフは「西ウクライナの最古の運命」*という論文を書き、その最後をこのように締めました。

 ロシア民族は、みずからの太古からの兄弟との血縁関係を決して忘れなかった。ウクライナ民族とベラルーシ民族もわれわれとの血縁関係を決して忘れなかった。それゆえ偉大な1939年9月において西ベラルーシと西ウクライナの住民はみずからと血を同じくする兄弟との再合同を、かほど熱狂的に歓迎したのであった。
 これはウクライナ史とベラルーシ史における新しい日付である。またそれだけではなく、われわれ全員の偉大な国〔ロシア〕の歴史における新しい日付でもある。

B. D. グレコフのこの文章の背後にはロシア人が無意識に持っている「東スラブ(ロシア・ウクライナ・ベラルーシ)の一体性」という観念があります。現在(2022年2月)われわれが直面している、ロシアによるウクライナへの武力攻撃もこうしたロシア人の意識が強く影響を与えています。

ただ、もしカーゾン線がもっと東に引かれていて、ガリツィアが分割されずにポーランド領となっていたら(あるいは独立した国家となっていたら)1991年ソ連崩壊後のウクライナの歴史は違ったものになっていたかもしれません。というのはこのガリツィアがもっとも反ロシア的な主張の強い地域であるからです。

ウクライナの残りの地域はロシアと協調的なところが多いように思われますので、武力衝突にまで至るような、今のロシアとウクライナの激しい対立は生じなかったかもしれません。B. D. グレコフが「血を同じくする兄弟との再合同」と呼んだ、1939年のソ連によるこの地域の併合が逆説的に、ロシアとウクライナの関係をむずかしくした面があると思われます。

今のウクライナ情勢を見るとき、特に西ウクライナの歴史がどのようなものであるか知ることは、正しく理解するためにとても重要だと思います。さらには東ウクライナについて理解するにはコサックの歴史も関係してくると思いますが、この記事ではまったく触れることができませんでした。

(この記事を書くにあたってはwikipediaやコトバンク(https://kotobank.jp/)の該当箇所を参照しました。またこの記事の画像はwikipedia英語版の記事"Curzon Line" にある画像を使用しました(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Curzon_line_en.svg)。)

* Б.Д. Греков, Древнейшие судьбы Западной Украины // Новый мир, 1939, № 10-11. с. 248-256.

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