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「食生活を通して」―大野盛雄『フィールドワークの思想』(2)

大野盛雄『フィールドワークの思想』を少しずつ読んでいっていますが、今回は第5章「砂漠の農村に暮らして」第2節「彼らの言葉を話す」の第2項「食生活を通して」(pp. 145-155)を見てみます。

ここで筆者は、よく尋ねられる質問から文章を始めて他民族や他国民の生活についての好奇心なり軽蔑感、あるいは自分たちの衣食住に対する価値観について述べ、それらが開かれているか閉ざされているかを考察しています。結論を言えば、西アジアの人たちのそれは開かれた形をとっていますが、日本人のそれは閉ざされた形をとります。

「……ところで食べ物はいかがでしたか。米はあるのですか。あ、あのまずい外米でしょう。醤油はないでしょうな。羊の肉は臭いでしょう。よく我慢して食べられますね。風呂には入れるんですか。……」。……質問は、その人たちの価値観を私におしつけ、それを正当化するような答えを私に期待している。もちろんこのようなことは何も日本人に限ったことではなく、どの民族、国民についてもいえることかもしれない。この点についてはイラン人やアフガン人も同じようなものといってよいだろう。
ここで問題になるのは、そのような衣食住によって代表される生活の違いを通して他民族や他国民を異質のものとして考えることが、それだけにとどまるかどうかということである。……西アジアの人たちは、他民族や他国民の生活についてきわめて好奇心をもち、場合によってはいちじるしい軽蔑感を表現する。ところが、その好奇心なり軽蔑感なりは、一面ではいわば「開かれた」形をとっている。……これに対して日本の人の衣食住に対する価値観は、「閉ざされた」形をとっている。米と醤油と風呂を享受しない人たちの日常生活はもちろんのこと、意識から文化、宗教まではとうてい理解できないと思いこんでしまう。西アジアの人たちがもつあの好奇心などはとうてい示さない。

しかし筆者はフィールドワークの際には調査対象の人々の衣食住の体系に従おうとします。

私たち日本人の側にも、彼ら〔西アジアの人たち〕の側にも、それぞれに特有の食物の体系とでもいえるものがある……。このような〔西アジア特有の〕食物体系をもった社会の中に、とくに農村に住み込む場合に、私たちはどのようにするか……。私は……完全に彼らの食物体系に自分を従わせることにしている。……食べることだけでなく、衣食住とも彼らの仕組の中に身をおく……。このためには自分自身にいわば一種の暗示をかけなければできないのではないかと思うことがある。……「パンもヨーグルトも生のタマネギもうまいはずだ」という一種の呪文を唱えることによって、「パンもヨーグルトも生のタマネギもうまい」と思い込んでしまう。こういう仕掛なのかもしれない。

筆者が調査対象の人々の衣食住の体系に自分を従わせるのは、それが農村調査という学問の性格上、必要であるからです。

……私の仕事は……私自身を規定し、制約している価値観を相手のそれと対決させながら、それによって生ずるものを研究の対象とするという考え方に立つ……。衣食住の問題はきわめて相対的なものであり、そのことよりも行動様式の違い、その背後にある価値観の違いと対決することの方がはるかに困難がある。

ここで筆者が言っている「行動様式の違い、その背後にある価値観の違いとの対決」は、私も海外で暮らしている中で常に感じていることです。そうした対決の中から、相手の行動様式、価値観を理解したいと思っています。そのためには相手の生活の体系にできるだけ入ってゆく一方、自分の生活体系に固執しないことが大事だと思っています。こうして日本人らしさは失われてゆくわけですが、それはただ単に現地で暮らしやすくなるためだけでなく、相手の考え方、価値観、心性などを理解したいからで、論文が書けるほど理解できるようにならないでしょうが、自分なりに論理的に理解してみたいと思っています。

筆者は西アジアに住んでいる日本人の孤立性、閉鎖性についても書いています。私はその部分に多分に共感したのですが、長くなりすぎますのでここでは割愛します。自分の今いる国でも現地の人たちの行動様式、価値観があるのですが、そういうものをあまり理解せずにただ遅れた国だから仕方がないと諦めているような日本人の発言を聞くたびに悲しくなります。おそらく筆者も同じような感覚を抱いたのだと思います。上の引用に続いて筆者は次のように書いています。

そうしたものに積極的に対決しようとせず、むしろ逃げ腰になり、それを正当化するために日本人社会の孤立閉鎖を再生産し、そのことを象徴するかのように衣食住の問題をことさらに強調する傾向に対しては、私は強く反発したい。

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