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#1適応障害の療養期間をインタビュー形式で振り返る:プロローグ(iikae)

春先に体調を崩し、しばし会社をお休みすることに。医学的な病名は[『適応障害』とのこと。療養期間を経ること4か月。人生の過渡期であったそんな期間をインタビュー形式で振り返りたいと思います。
それぞれの彩りにわけて。

―1月末に適応障害の診断を受けてから4か月ほどの療養期間を経て復帰したわけですが、振り返ってみてどうですか?

そうですね。思い返せば、12月末のコロナ感染の時にもうすでにいっぱいいっぱいの状態だったんですよね。というかその前からもぽろぽろとサインは出ていた気がします。

―サインとは例えばどんなものですか?

睡眠が浅かったり、ネガティブなことが頭から離れなかったりはずっとしていましたね。ただ職場の回りの人たちも同じような忙しさだったので、自分自身の能力不足だからしょうがないと抑えつけていた感じです。その時は月100時間残業が異常だなんて思わず、むしろ当然、もしくは勲章のように思っていたところもあったかもしれません。

―不調時もセルフケアとかはしていたんですよね?

はい。そうですね。自分自身、心理療法などを若い時から勉強していたので、どこか耐性がある思っていたところもありました。それにメンテンナンスとしてセラピーも受けたりはして。ただ、結局、また元の状態に戻ってしまうというか。今思うと、「50%50%」のバランス関係なんだなと思います。

―50%50%?

自分自身の捉え方で解決できる問題が50%、それ以外の回りの環境に依存する問題が50%ということです。
当時は仕事で専門じゃない分野のプロジェクトマネージャーを任されていました。専門じゃないので覚えることも多くあり、でも、マネージャーとしてリーダーシップをとらなくてはいけない状況で。前に進めようと思ってした自身の発言が会議を停滞させることもあったり。空回りの中でまさに自己否定をする環境のループでしたね。いくらメンテナンスをしたとしても、環境の波にのまれて、職場に出ると自動的に自己否定モードに揺り戻されていく感じでした。

―体調も思わしくなかったんじゃないですか?


思考がもうついていかない状態でしたね。前頭葉が動かないというか。話を聞いていても耳には入ってくるけど、頭には入ってこない状態で。頭の中で味のしないガムをずっと噛んでいるような感じで、情報を理解しようとしても理解できない。締め切りの時間だけがただ近づいているんです。

―その中で、限界がきたと?

はい。ついにある朝、起きると動悸と震えが出て起きれなくなって。。。
会社に行けなくなりました。
自分自身ではコントロールできないような症状がでたのは初めてだったのでこれはヤバいなと思いました。怖い、と言った方が適切かもしれません。

―それで療養する決断をされたのですね?

そうですね。まぁ、休む決断をしたときは、すごい勇気がいることでした。自分が休むことで周りに迷惑をかけたりとか、休むことで今まで積み上げたものが崩れてもう会社だけじゃなく社会へ戻れなくなってしまうんじゃないかなって。

―それでも療養することを選択したわけですが、そこは何か理由があるんですか?

このままだと自分が壊れてしまうと思ったところが一番の決め手だったと思います。真っ暗闇にの中にいてどうしていいかわからないって言うところから抜け出せなかったのも。それと家族の後押しもありました。

―家族の方もお休みすることには賛成してくれたんですよね?

はい、そうです。奥さんは自分よりも賛成してくれていましたね、療養することに。なんなら会社辞めちゃえばって。結局自分自身が一番、こだわっていただけなんですよね。今思えば。

―実際に療養してみていかがでしたか?

客観的に現状を眺めてみるいい機会になりました。やっぱりおかしかったですよね。働き方もその時の自分の心も。やっぱり離れてみないとわからないことっていうのはたくさんあるんだなーって思いましたね。心理療法とか数十年学んできたのにも関わらず。おごりがありましたね笑

―そうなのですね。どんなふうにおかしかったと思いますか?

全部を1人で抱え込んでしまっていました。気持ちも余裕もなくて。周りへの感謝の気持ちは一切持ててなかったですね。家族にもずっとピリピリした雰囲気っていうのが伝わっていたんだと思います。ただ本人は走っているときには気づかない。立ち止まらないと。

―実際、『適応障害』という診断を受けたときはどうでしたか?

ドクターはうつ病にの前段階だという見立てでで、それを聞いて「あぁ、まだこの状態でもうつ病ではないんだぁ」という気持ちが一番最初に浮かびました。なんていうか、こんなにつらいのにもっとつらい症状があるのかと。 

まだ限界までいっていないのに会社を休んでいいのかって責めている自分もいましたね。ただ今思うと、あの段階で休んだのは正解だったと思っています。少し余力を感じれるぐらいの時で。もっと症状が悪化してからだと、たぶん取り返しのつかない状態になっていたと思います。

―そうなんですね、ちなみに適応障害という病名自体は知っていましたか?

いえ、詳しくは知らなかったです。身近に疾患した人もいたのですが、その時は知ろうともしなかった。改めて、調べてみると「ストレスとなる出来事が明らかなことが特徴」とあり、あぁ、そうだよな、と。
ただ自分自身では「適応障害」って名前で呼ばないようにしていましたね。
呼びたくなかったというのが近いかもしれませんが。

―えっ?病名を変えていたんですか?

いえ、違います。「適応障害」って自分自身でも思い込むとますます悪くなりそうな気がして。なので、「好き嫌いハッキリ」って呼んでました。

―へぇー。そうすると気持ちも変わりますか?

そうですね、「障害」って言葉だと何だかずんと重く感じるところがあって。。。
世間一般に言われている「発達障害」とかも「どユニーク」とか言い換えて呼んでいたりしていたので、そんな延長線みたいなもんで。
障害って表現の背景にはどこかしら「正しさのモノサシ」があって、そこからはみ出たりしたら、使われている気がするんですよね。なので、せめて「正しさのモノサシ」を自分自身には押し付けたくないなって。優しい言葉をかけてあげたいなと思って、「適応障害」は「好き嫌いハッキリ」って名前で呼ぶようにしました。

―ハハハ笑 そしたら仕事が嫌いってことがはっきりしたってことですね?

えぇ、まぁ、仕事が嫌いというか、人生への向き合い方ですかね。
なんだかロール(役割)を生きているといういか、自分を生きていないというか。そんな生き方が嫌いだってことですね。
まぁ、ただそんなことを振り返れたのも療養期間の後半のほうですけどね。
まずは仕事を離れて療養することが優先でしたし。

―そうですね。呼び方はなんであれ、療養が必要な状態ってことは変わりないですものね。ちなみに療養期間について教えていただきたいんですが、どんなお休みの仕方だったのですか?

はい、まずは田舎の実家へ1週間ぐらい戻りました。
そこで、ゆっくり自分を取り戻していった感じです。 

―具体的に教えてください。

う~ん、ー

To be continued ー次回、田舎の実家ー

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