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ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず【下】2 (新潮文庫) | 本とサーカス

ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず[下] 2
著者 塩野七生
出版社 新潮社
発売日 2002年

 
 本書の第1章に、ローマ史の中でもトップ5に入るほどスキな話がある。その一部を簡単に紹介しよう。

紀元前461年、アテネの政界に現れた天才<ペリクレス>は、政府役員や行政・軍事の担当者を「抽選」で選ぶと定め、人類史上初となる徹底した「直接民主政」を完成させた。
以降30年間、アテネは「ペリクレスの時代」とゆわれる全盛期を迎えるのだが、その時期に、ローマから3人の視察団がギリシアに派遣されたのである。

視察の目的は、成分法(文章化された法律)作成に向けての調査。これは、ローマの法律が平民には公開されていなかったことから、平民が元老院に不服を申し立てたことを緒に発する。

ローマは元老院議員の中でもとりわけ有能な3人を、法治国家の先進国であるギリシアに送った(紀元前453年)。彼らは最も栄えていたアテネに1年間滞在し、希望に満ち溢れている国の文化を肌で触れた。
 帰国後、元老院たちはさっそく成分法の作成に取り掛かる。そして紀元前449年、「十二表法」というローマ最古の法を12枚の銅板に刻み、ローマ市民の広場である「フォロ・ロマーノ」の一画に並べたのだ。

「ジャッジャジャーン!」

そう言ったという資料は残っていないが、おそらく、このぐらいのテンションで十二表法を公開したのではないだろうか。

群衆たちは色めき立ち、ぞろぞろと広場に集まると、「みんしゅっしゅぎ! みんしゅっしゅぎ! びょーぉどう! びょーぉどう!」の合唱が行われた(※フィクションです)。

だが、平民が抱いていた期待と希望は、一瞬にして義憤の念に変わる。
なぜなら、驚くべきことに、法の内容がなんら変わってなかったのだ。既成の法律がただ単に文字起こしされただけであったのである。

それはつまり、元老院らが調査報告を受けたものの、アテネの模倣を全くしなかったということだ。

絶頂期にある国を視察して、その国のまねをしないのは、常人の技ではない。 

ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず[下] 2 p.21


果たして、なぜ有能な派遣団の3人はアテネの模倣を却下したのだろうか。

それは、彼らの卓越した「物事の本質を鋭く見抜く洞察力」があったからであるが、この続きは是非本書を手に取って、お楽しみいただければと思う。




【本書で描かれている年代】

紀元前5世紀〜紀元前3世紀


【主な出来事】

ギリシア視察団帰国
「十二表法」制定
ケルト族襲来(紀元前390年7月18日)
リキニウス法が成立(紀元前367年)。すべての要職を平民出身者にも開放。
カウディウムの屈辱(紀元前321年)
アッピア街道敷設(紀元前312年)


【主な登場人物】

ペリクレス
アテネの政治家

マルクス・フリウス・カミルス
独裁官(5回)。エトルリアの都市ウェイの攻略に成功する(紀元前396年)。

アッピウス・クラウディウス
財務官。アッピア街道を敷設しただけでなく、本格的な上下水道工事をはじめた。

クィントゥス・ファビウス
執政官。紀元前297年、サムニウム・ケルト連合を倒す。

ピュロス
北部ギリシアの王国エピロスの王。戦術の天才。





以下、「これは…!」と筆者が思わず感嘆の声をあげた箇所を引用する。

・他人の成功にはことのほか嫉妬心を燃やしたのが、アテネ市民である。(p15)

無為無策のリーダーならば、見捨てられることはあっても失脚はしない。(p15)

・「われわれは、私的な利益を尊重するが、それは公的利益への関心を高めるためである。なぜなら、私益追求を目的として行われた事業で発揮された能力は、公的な事業でも応用可能であると思っているからだ。」(P19)

・自由と秩序の両立は、人類に与えられた永遠の課題の1つである。(p.23)

・挙国一致で外敵に対抗せざるをえなかった共和政誕生直後の十数年がローマの平民階級に、自分たちのもつ力を自覚させることにもなった。休む間もなく継続した戦闘も、彼ら平民たちの参加なしには勝つこともできず、続けることもできなかったからである。(p31)

・ローマの直接税にあたるのは、不動産収入の多少に比例した兵力提供であったから、広大な農牧地を所有する大貴族には、多数の軍兵を提供する義務がある。これも「クリエンテス」が存在しなければ実行不可能なことであった。(p48)

・(パトローネスとクリエンテスの)両者の間に介入するものの中で最も重視されていたのは、何よりもまず信義(フィデス)であった。それゆえに、裏切りは最高の悪徳とされていた。(p50)

・ローマ貴族のもっていた力の基盤は、土地よりも人間にあった。(p51)

・戦時には一致団結するが、それは終るや国内での抗争が再開されるのが、共和政移行時からつづくローマの常態になっていた。(p81)

ローマ人には、敗北からは必ず何かを学び、それをもとに既成の概念に捕われないやり方によって自分自身を改良し、そのことによって再びちあがる性向があった。(p115)

・後世から見れば歴史的必然と見えることのほとんどは、当時では偶然にすぎなかったのだ。その偶然を必然に変えたのは、多くの場合人間である。ゆえに、歴史の主人公は、あくまでも人間なのである。(p122)

・道路が国土の「動脈」であることは、今日ならば誰もが知っている。だが、二千三百年の昔、それをわかっていたのはローマ人だけであった。(p130)


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