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誰にも言えなかったわたしの夢

自分の文章を本にしたい。
誰にも言えなかった私の夢。今年は本気で向き合うことにした。

子供のころから、時間があると常に文字を追っていた。図書館に足繁く通い、シャンプーの成分表示を読み、手元に読むものがなくなった時は、コンビニにおいてあるリクルート紙をもらって来て読んでいた。
それと同じくらい文章を書くことが好きだった。 幼い頃は、原稿用紙に短い物語を書いたり、お気に入りのノートに日記を書いていた。

高校生のころ、付き合っていた人がたまたま私の文章を読む機会があった。その時、彼は私の書いた文章を徹底的に叩いた。彼は私が書いたものとは知らなかった。それが余計に私を傷つけた。それ以来、人に文章を見せることがトラウマになり、文章を書いていることは極秘事項となった。
でも、文章を書くことが好きだったので書くことを止めることはできなかった。

高校生の頃、エッセイのようなものを書くようになった。そのころ、家庭や学校が嫌すぎて、精神状態が終わっていた。人に相談することができない私は、書くことを話すことの代わりにしていた。
頭の中に常にたくさんの思考や感情が飽和しているのに、実際には本当に思っていることや大切なことを人に言えないめんどくさい性格をしていた。なので、文章を書くことで、デトックスをしてバランスを取っていた。書いている時間だけ解放されていた。
ただ、文字にしたところで読んでくれる人がいない。私は誰かに自分の辛さをわかって欲しかった。読み手がいないとコミュニケーションは成立しない。思考はすっきりするけれど、本当に伝えたい人の元に私の気持ちは届かないし、私という人間を理解してもらうこともできない。行き場のない承認欲求が渦を巻いていた。

大学生になり、これまでの人生でねじ曲がり斜に構えていた自分の性格を矯正するために、文章を書いた。それをnoteでこっそりと公開するようになった。承認欲求が閾値を超えた。私の知らないところで叩いてくれる分にはまぁいいか、と思った。
Noteを始めて、自分以外の誰のためにもならないような文章を、誰かが見つけて、読んでくれていることに驚いた。自分の文章に価値はないと思っていたので、読んでくれる人がいることがうれしかった。そして、書くことで自分を知ってもらいたいという思いは強くなった。

今日までたくさん書いてきた。正直、文才はないことはわかっている。有川浩さんの言葉を借りるなら、私は「読む側」の人間だ。作家みたいに人の心を捉えて離さない描写や文調はできない。
ただ、私は書きたい。だから書く。
一世一代の決断から日常の何気ない喜びまで、たくさん残したいことがある。私という人間が考え、感じ、経験してきたことをたくさんの人に伝えたい。子供がごはんを食べながら今日一日あったことを家族に話すように、文章を書いて、誰かに伝えたい。

言葉はお守りになると思っている。私にとって書くことは純度100%のエゴだ。私は私のために書いている。ただ、これまで出会ったたくさんの文章が私のお守りになっているように。私の書いた文章が誰かのお守りになれるような奇跡が起こるかもしれない。奇跡が起こるのを見たい。

今年は、時間の許す限りたくさん文章を書く。たくさんの人に読んでもらう。そして自分が生きた記録を、愛してやまない本という形にしたい。

無謀だけど、行動しない限り可能性は0だから奇跡を信じてあがいてみようと思う。

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