見出し画像

剛田のような詩をくれ

最近チョーキューメイっていうバンドの曲にハマっている。
なんか歌詞がすごく好きなんよな。俺あんま歌詞気にしないタイプだったんやけどチャットモンチーとか歌詞好きで聴くのも最近増えてきたな。そう多くなかったので一通り聴いた中で好きな曲が何曲かあるんやけど、中でも特に好きな2曲のリンク貼っておきましょう。

たいむかぷせる

おやすみパパママ


何でこの2曲が好きなのかっていうのは明確にあって、センセーショナルな声色なのはもちろんやけども、何か歌詞がこう、ワード単位でめっちゃ頭に残るんよな。
思いつく限りだと「隠された上履き」「あの木の下に埋めた文鳥が今も鳴いている」「かぎっこひとりスキップしてかえろ」「コンクリだらけのかえりみち」「自分で選んでない服ばっかり着てる」「20時に家は帰れない」「私は今日も悪い子」
とかそこら辺のワードが聴いててズシっと重みがあるっていうか、僕が仄暗い放課後を送っていたから刺さるとかではなくなんかこの人の声も相まってなのか文字列として頭に入ったときスッと流せない重量があるんよね。一つ一つ脳をグーパンされてるようなそんな感じ。
精神的に不安定な時に聴いたらグラッと来そうなくらいとにかく歌として独特なパワーがあるよなあと思ったんですよね。
0からこの曲が生まれているわけでは無いと思うと、一体どんな感情からこの歌詞を紡いだのか非常に興味を惹かれます。
多分ハッピー幸せみんな大好きとかその手のポジティブな感情のみからこのパワーが生まれたわけじゃない気がするんですよ、実際どうなのかはわからないけれど。

最近思うのが、内にあるものを外側に何らかの形で出すやり方というのは様々だけど、とりわけ詩や歌詞というのは同じ言葉という枠組みの中にありながら内にあった時点の生のそれとは全く別の形に変容させた状態でも成立する媒体であるというのが、面白いですよね。
もちろんほとんど内にあったままで思った通りの真っ直ぐな歌詞もあって(というかポジティブなメッセージは往々にしてそういう元の形のまま情熱的に紡がれるのが常な気がします)それも良いんですけど、そのまま書き出すことが憚られるような鬱屈した感情とかってあるじゃないですか。

その手の通常なら外に出しづらいものも詩や歌詞なら婉曲した表現を通して外側に出すことができて、ともすればそれにある種の心地良さを感じてくれる人さえ現れてくれるかもしれないわけです。
いや素晴らしいことですよねそれは。
感情のリサイクルや〜ですよねそれは。
彦摩呂さんこれはどうですか?(六角レンチを見せる)これか?これは…これは感情のリサイクル以外のものや。早く片付けてくれるか。
ですよねそれは。

かくいう僕も最近は嫌なことを思い出してあーーーーー○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ね○ねとか思ってしまうこともあるわけです。

よく嫌な思いが消えないときは紙に書いてみろって言うじゃないですか。noteの下書きにも書いたりしてたんですけど最近掃除をしていたら少し前に書いた嫌なことに対する自身の中のグラグラと煮えたぎる諸々の思いを書き殴ったものが出てきたんですけど、これがもうほんとに見るに耐えなくて。
心が弱い人を並べてスライドショーで見せたら鉄砲隊に撃たれたみたいな勢いで連続でショック死させられるんじゃないかと思うくらいの怨嗟と憎悪と憤怒の数々、自分の中には御伽話に出てくるような本物の鬼がいるんだなと確信を持ちましたね。
とにかく、血の通った人間の書いた文章じゃないなと思ったんですよ。吐き出したことによる一時的な落ち着きはあるんですけども産み落としたそれの邪悪さは目に余るものがあるわけです。自分のものであれ下痢糞は見たくないわけです。

ただまあエネルギーとしてはすごいものやと思うんですね。チョーキューメイがどれほどの思いで楽曲を作ってそれが僕の感じた言葉や曲としてのパワーとしてどこまで還元されているのか定かではありませんが、もし僕に婉曲的なボカシや独創的な暗喩を用いてこれらの思いをパワーと解釈の余地に満ち溢れた素敵な詩として紡ぐ力があるならば是非是非やってみたいものです。
もし本当にこのエネルギーを曲としてのパワーに変換しきれるなら剛田のパンチのような強烈な破壊力を生み出せる気がしています。
そのままでは犬も食わないが、形を変えて何か生み出せるならというね。
腹下してああもう壊滅的な下痢してしまったな〜と思って便器覗いてみたら一輪の花が咲いてたみたいな、その花の名前を考えてたら一日が終わってたみたいな、そういうステキな一幕が俺の○ねから生まれても良いと思うんですよ。

何か創作物を見聞きして受ける衝撃というのは作者がそこに埋め込んだメッセージ性の強さだったり、物語としていかに丁寧に紡がれてきたのかが関係しているような気がしますけども、ハッピーエンドや感動する物語で受ける衝撃というのはわかりやすいしじんわりホッコリしたような、衝撃の度合いとしては比較的緩やかなイメージです。
対してネガティブだったり、或いは内訳がわからない不思議な感情というのは、受け止め方がわかっていなかったり慣れていないぶんガツンときて、場合によっては後々自分で考えて何かしらの解というか、自分の中でその衝撃を受けて生じたものの帰着点みたいなのをとりあえずでも良いからこしらえる事を迫られるようなケースが多いような気がするんですねぇ。
そういうのはすごく疲れもするんですけど結構楽しかったりしますよね、します、よね?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?